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因果関係を再考する『LOGOS MOVIE VOLUME.1』

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 6月17日
  • 読了時間: 6分

 太田達成監督作『LOGOS MOVIE VOLUME.1』というネットで公開されているショートフィルムを見て「これはすごいぞ」と思った。まあまずは見てもらわないことには始まらない。URLを貼っておくので是非見てみてほしい。



 僕の友達はこの映画を見て「『石がある』って一回しかできない映画だと思っていたけどこの人なら何度も作れるんだなと思った」と言っていた。確かにそういう印象を与える映画でもあるわけだけど、それだけで終わらぬところがある。どうも凡百の映画とは違う挑戦を静かにしているようなのだ。


 6:10あたりを見てみる。1カット目、チホムラカミ、ちなみに彼女は僕と大学の同級生で今セルビアで映画を作ろうとしているプロジェクトのプロデューサーをしてくれている、が椅子で寝ていると、帽子が落ちて、それがきっかけとなり起き、湖の方を眺め、何かに気づいたかのように上半身を前に傾け、歩き去る。2カット目、画面の上手側にチホムラカミは歩き去り、村上カナカだけが画面に残されて、どうやら湖に行ったらしいチホムラカミが「あ、ここにも切り株あるよ」と言う。どうも前のシーンにもあった湖の中に切り株が浸かっているものを発見したようだ。3カット目、村上カナカのPOVのショットとなり、チホムラカミが草むらの中を歩いている。声から察するに足は水に浸かっているようだ。

 ここがどうもおかしい。これを見たあなたもおかしいと思ったはず。問題は、チホムラカミは一体何に気づいて椅子から立ち上がったのだろうかということなんです。

「あ、ここにも切り株あるよ」の言葉にあるように、彼女はどうも切り株の姿を見つけて椅子から立ち上がり、湖の方へ歩いて行ったように見える。しかし、3カット目のPOVが示すように、椅子に座った位置からでは湖の底どころか足元さえ見えないくらいに草が伸びている。では、彼女はなぜ切り株を見ることができ、立ち上がれたのだろうか。それはよくわからない。全く説明されない。これがすごいのだ。映画はこんな明らかに視線劇として間違ったモンタージュを、実は平然と行えたのだ。


 一般に、映画はご都合主義から離れるべきだと思われている。たまたま見つかった、たまたま何かを見た、たまたま何かを行った…こういう「たまたま」ばかりが続くとつまらない。それなら何が起こっても不自然ではないし、僕たちはそんな都合の良い世界に暮らしていないのだ。だからそれがたまたまではないように物語は構成されるべきだ。前に『ホワイトハウス・ダウン』についての文章を載せたことがありますが、映画を作る人は様々な方法を駆使してそれがさも何か運命の連鎖のように思われるようにしたい。鎖状に出来事を繋げていきたい。しかしこの連鎖を作るのはなかなか難しい。今次作の脚本を考えているのだけど、出来事をうまくつなぐことがいかに難しいか。


 一方に、スローシネマと呼ばれるジャンルがある。あるいは(どうやらこれは日本独特の表現らしいが)「ヴァカンス映画」と呼ばれる映画群もある。僕はこうした映画があまり好きではない。どこか出来事の連鎖を考えなくてもいい、ご都合主義が許されているジャンルだと勘違いされている節があるのだ。カフェで珈琲飲んでいたらたまたま誰か知り合いが通りがかることってあるでしょ?とか、ヴァカンスで旅行していたら知らない人と仲良くなることってあるでしょ?とか、現実を顧みればそりゃたしかにそんなこともあろう。ただそれが物語の本筋とは関係ないものならさておき、そのたまたまの出来事が恋の始まりだとか、友情に亀裂をきたすだとか、決して大きな話には発展しないにせよ、その映画にとって重要な部分となるのであれば、やはりたまたま起こったとするのは都合が良すぎる。あるいはご都合主義と格闘してきた映画史に対してどうも不敬に思える。もちろん全てのスローシネマと呼ばれる映画がそうではないことを知ってるが、どうもこうした映画というのは簡単に撮れそうな雰囲気を醸し出しているからだろうか、あまり考えられていないような映画もかなり見るのだ。

 そこへ解決策として考えられるのは、リアクションによる連鎖を組み立てていくことだ。例えばギヨーム・ブラック監督『みんなのヴァカンス』では、エドゥアールを他の2人と過ごさせたい。そのため彼の運転する車をどうにかして故障させなければならない。そこでたまたま故障させたり事故にあうということもできるが、それでは芸がない。知らない細い道に迷い込ませて、通り抜けられずバックしているときに事故らせようというわけだ。しかしどうやってこの道に入り込ませようか。口の悪いフェリックスに「街をひと回りしよう」という生意気な要求をされたことにしよう。ではフェリックスはどうしてこの車に乗っているのか、安く行く方法として女性のフリをして相乗りアプリを使ったことにしよう。ついでにエドゥアールが断りづらいように雨でも降らすか。なんでフェリックスはヴァカンスに行きたいのかといえば、恋人に会いたいからにしよう。じゃあ恋人と会うシーンから始めるか…。こういう順序で考えたかどうかはともかく、映画は連鎖的に出来事を結びつけている。

 僕は正直この方法しかなかろうと思っていた。そして映画というのはこうやって出来事を連鎖させていくものだと、これが正解だと思っていた。


『LOGOS MOVIE VOLUME.1』の、とりわけ椅子から立ち上がるというチホムラカミのリアクションの何がすごいかというと、リアクション(椅子から立ち上がる)の元となるアクション(湖の底にある切り株の発見)が、空間的に実現不可能だということである。にもかかわらず、それが誰の目にも明らかであるのに、違和感なく受け入れられてしまう演出がなされている。さも現実に根差したリアリズムな映画のように思わせつつ、映画でしかできないようなアクションとリアクションの関係を構築している。この映画はいわゆるスローシネマと呼ばれるようなものとなるだろう。しかしだからといって日常的な風景を切り取っただけの映画ではなく、映画は因果関係をどう描けるのか、奇妙な挑戦をしている。


 これを書くために何度か見返しているが、厳密にはチホムラカミが移動するにあたり湖の底にある切り株に気づいていたかどうかは確定ができないということに気付かされた。何かに気づいたかもしれないし、気づいていなかったかもしれない、その間のような反応をしている。何かを発見して首を傾げているようにも見えるし、よく見ようと思って目を細めているようにも見えるし、よりよく見ようと思って首を少し前に出したようにも見えるし、はたまた全て私の妄想かのように見える。普通この状況ではまた眠りにつくのではないかと私は思うので、気づいたのだと思ったのだろうか。この程度しか言えない。しかしそれは僕が何度も同じ場面を見返したからで、最初に見たときには「何かに気づいた」と確実に思った。そして僕はもう二度と訪れない最初に見た印象に賭けることにした。それに、もちろんこの微妙なニュアンスを太田達成監督が意図した可能性もある。意図的か偶然か、それがどちらの意図にせよ、そのように見えたことの方が重要だと思っている。

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