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出会いについて

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2025年7月12日
  • 読了時間: 5分

更新日:2025年7月19日

 「『なぜ勉強するの?』と子どもに尋ねられて困った大人たちへ」というブログ記事を読んでいた。もし子どもに聞かれたらなんと答えようか、子どもなんていないのにそういう妄想をするのが好きだ。その記事にはこう書いてあった。「子どもが『何のために勉強するの?』と尋ねた時点で、彼らはすでに勉強というものに出会い損ねている」なるほど「出会い損ねている」のか。


 ちょっと前、カズレーザーさんが部活動にメリットを感じていないということがニュースになった。唯一メリットがあるとしたら理不尽な上下関係が今後の人生に役立つだけだと。この記事を読んでどうもモヤモヤとしたものが残った。そんなに部活動って嫌なものだっただろうか。しかしリプ欄には賛同するようなつぶやきがたくさん出てきた。僕も中学時代にサッカー部に入っていた。たしかに(肉体的にというだけでなく精神的にも)キツかったこともあったし、今あのときのような生活をしたいかと聞かれれば絶対にしたくない。けどそのおかげで「全国で1位になる」みたいな到底叶わない目標ではなくとも自分に見合ったサッカーとの親しみ方があることを知ったし、それが後々小さな幸せを見つけられる今の性格につながっている気がする。部活で嫌な思いをした人もいるのだろうけれど、そんな悪いもんじゃない気もしている。そう思えているのはきっと僕は幸せなことに部活動というものとうまく出会えていたからだ。このニュースを読んで、部活動と幸せな出会いをした者として、誰しもが幸せに出会えるわけではないことを肝に銘じなければ。さもなくば無責任に誰かに勧めてしまう可能性がある。無責任に「なんで部活入らないの?」なんて悪びれることもなく聞いてしまう可能性がある。


 無責任に出会わせてしまったことについて大失敗をしたことがある。僕の父とジャック・タチの出会いだ。僕があるとき大好きなジャック・タチの映画を両親に見せた。すると父は「要はドリフだな」と言ってしっかり見てくれなかった。父は別にタチの映画を見たいわけでもなく、決して映画に詳しいわけでもないのに、僕が好きだからという理由だけで見せてしまった。今思い返してもやってしまったなぁという気持ちが大きい。もう少しうまい出会わせ方をすればよかったと今でも後悔する。それくらいにタチの映画が好きだし、父にもなんとかわかってほしかったのだが…だめだった。非常に惜しいことをした。僕はこの体験から、本当に好きな映画を、父だけでなく人にあまり言わないようになった。特に心からおもしろいと思った映画については慎重になる。やはり自分がおもしろいと思ったものが誰かとうまく出会えずに、なんなら「つまらなかった」なんて思われるとショックだ。だから「これが好きだ」と表明することは勇気がいる。

 どのジャンルでもそうだろうが、嫌な映画好きというのがいるもので「これが好きなんだ」というと「へぇ、きみこういう映画が好きなんだね」なんて値踏みするように言われることがある(僕もそういうことをするきらいがある)。個人的にはそういう人にナニクソ!と思って映画をたくさん見るようになった経緯があるもので、そういうことを言っちゃう人を全否定したいというわけではないのだけれど、そういう人達の影響で好きな映画を言いたくない気持ちになる。だから毎年のように年末にベストテンを発表している方々の抱えるストレスと打ち勝つ勇気はすごいものだろうと想像する。僕も以前どこかでベストテンに参加させてもらったことがあるけれど、臆病だから映画好きの人達からの評価が高いものを出しがちだ。「えー、こんなの評価しているの?」なんて言われて寂しさを感じたくないのだ。偉そうな人達に文句を言われてもいいからこの映画との出会いが良かったと言い張れるものなんて、滅多にあるものではない。勇気を持って表明をすればまた似たことを思っている人との出会いがあるのだろうが…。


 岩倉龍一監督の『BRAND NEW LOVE』を見た経験は、久々にあった胸の高鳴る出来事だった。僕はこの映画が好きだと表明していきたいと思う。というのはこの映画を見ていて、岩倉監督は映画と出会っているという感じを受けたからだ。それは綺麗な画面を作ることでも、良い演技(というのが何か僕はよくわかっていないのだが)を撮るということでもなく、ある仕方のなさに出会っているという感覚からきている。

 世界の混沌に対してカメラを向けて一つの物語を語ろうとすることは、時にその混沌の中の豊かさを殺すことにもなる。だが『BRAND NEW LOVE』は目の前の混沌にしっかり戸惑っている。うまくいかないこの世界を前に、どうしようかなあと戸惑っている岩倉龍一の痕跡が映っている。その映画を作ることとの出会いの経験が、そしてその勇気ある出会いが、僕自身にもまた出会いとして伝わってきた。とても嬉しいことにPFFアワード2025に入選した。9月に上映されるだろう。エンドロールにジャック・タチが大好きで、けどに人に勧めるのが下手クソなアホンダラの名前が見えることでゲンナリするかもしれないが、それを差し引いてもお釣りが来ると思う。うっかりこのブログを読んでしまった皆さんは、よければ出会いに行ってほしい。僕もまた見に行きたい。



 P.S. 映画を作っていると自動的に演劇も好きなのだろうと思われるが、僕は完全に演劇と出会い損ねている。基本的に演劇は苦手だ。どれくらい苦手かというと、知り合いの俳優さんが出演するから見にきてくださいと連絡がきても、ちゃんと断るくらいである。全く楽しみ方がわからないのです。もちろん「映画だったら見にいきます」とも伝えている。幼い頃に何か舞台で失敗した経験があるのだろう。なんでこんなことを書いているかというと、最近知り合いの俳優さんからご連絡をいただいたから。本当にすみません。

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