「仕事のやりがい」はなんですか
- Sota Takahashi
- 5月31日
- 読了時間: 7分
常時募集をしているテーマ募集の投稿フォームから投稿をいただきました。ありがとうございます。
たかはしさんの「仕事のやりがい」はなんですか?または、仕事にやりがいが必要だと思いますか?
今回はこの投稿を元に書いてみようと思います。
僕は先輩を莫迦にしていた。昔の会社の先輩が「仕事にやりがいとかいらない」と言っていたからだ。仕事を通じて何かやりがいを感じられる方と、感じられない方の2つがあったとしたら、ないよりはあった方がいいんじゃないかと思っていた。だって同じ時間過ごすのに、退屈よりも楽しいほうが得な気がするでしょう。莫迦だなぁ、もっと社会人として働くこの日常を楽しまなきゃ、なーんて思っていた。ところが今はあの先輩に共感できる。仕事にやりがいとかいらない。僕の人生の充足感を仕事にあけわたしたくないのだ。
昔の仕事柄、飲食店で働く方から仕事のやりがいについての話を聞くことが多かった。「お客様からの『美味しかった』が仕事のやりがいです」とか「『ありがとう』の言葉がとっても嬉しい」という言葉を僕はたくさん聞いた。一人二人ではない。毎年同じような言葉を何回も何回も、何人からも聞く。するとだんだん「本当にそう思ってるの?」という疑いの気持ちが強くなってくる。嘘をついているわけではないだろうが、本音ではない感じがする。はらわたからの言葉ではない。例えば「仕事終わりにマルメンを一服、これがやめられねぇんだ」とか「キャバクラでネエちゃんに愚痴っているときが一番楽しい」とか言ってくれた方が、個人的には好感が持てる。
聞くだけでなく、僕が人にやりがいについてインタヴューして聞いたこともある。そういう映像を作っていた。僕は何度も聞いていたやりがいのクリシェに対して、せめて自分がインタヴューするときには違う言葉を引き出したいと思った。相手はもともと美容師として働いていながら、転職をして建築業界に入ってきた人。この経歴だけでも何か物語がありそうな気がする。なんとかその人の言葉を紡ぎたい。しかしなかなか難しい。言葉少なな人でどうして転職したのかという話を聞いても「なんとなく」とか「良いと思って」とかしか出てこない。もちろん仕事のやりがいについて聞いても「お客様からの感謝」とか「一人前に仕事ができること」とかである。
なんとかならんものかと思いつつ、僕はそりゃそうだよなという気持ちも感じていた。おそらく、多くの人は仕事にやりがいとかなく働いている。…そうでしょう?普通はやりがいがあるから働くのでもなければ、ないから働かないのでもない。仕事だからやるのだ。生活をするためにお金が必要だから働くのだ。ストレスがあろうが、ハラスメントがあろうが、心身が耐えられる範囲であれば続けるし、耐えられなければ辞める。”仕事から得たお金で”何かを充足させようとはするだろうが、”仕事そのもの”から何かを充足しようということは思わない。だから急にやりがいなんて聞かれても困ってしまい、どこかで聞いた誰かの、この問いに対して求められているとりあえずの正解らしい言葉を自分の言葉として口に出す。その人も多分、わからなかったのだと思う。
それだけではない。僕がインタヴューしていた人を見ていて思ったのは、もしかしたらこの人はわざと白々しさを残していたのかもしれないということだった。口に出した言葉は本音ではないのだという予防線を張り「仕事のやりがい」というものから自分の生を守ろうとしているのではないか。
僕はその人の姿を見ながら、どこか自分を投影していた。
大学時代に持っていた映画を作りたいという気持ちを一旦引っ込めて、僕は会社員として働いていた。その仕事はとても学びが多かったし、その職場にいれたことは僕の人生の中でもとても良いことだったと思っている。お客さんから感謝を伝えられると嬉しいし、一丁前に仕事を円滑に進められたりすると達成感があり、やりがいを感じていた。ただ、結果僕はその会社を辞めて大学院に入って映画の道に戻った。仕事で感じたやりがいは確かに充足感はあるけれど、なんか違った。
例えば、僕自身は誰かと関わることがおもしろいから映画を作っている。映画を作ることを通じて場所や人と知り合ったり、関わりを持つことは嬉しいことだ。しかし、じゃあ会社員として働いても誰かと関わることはできるし、それによって変わっていくことはできるのだから、映画を作りたいという気持ちはそこで解消されるね、と言われると全くそんなことはない。その仕事は楽しいかもしれないが、映画を作りたいという気持ちは依然残り続ける。それなのに目先のやりがいを得ることはそこそこ気持ちがいいものだから、どんどん仕事のやりがいが生活を占めていく。映画を作ろうという気持ちはありつつも、できない状態が続いていく。しかしその状況が不思議と心から嫌というわけでもない。不思議だ。映画を作りたくてイライラ・ウズウズしてもいいはずなのに、それはそれでいいんじゃないかと思っていた。そのときに仕事のやりがいが持つ危なさを知った。
感覚としては僕の心の中には心の充足感の数が決まっていて、やりがいを感じると、心の充足感が満たされる。それが仕事のやりがいでいっぱいになると仕事以外に何かをしようという気持ちがなくなってしまう感じだ。やりがいを持って働くのは大変結構なことなのだが、僕の場合はそのことで精神的な満足感を得てしまって他のことをする気持ちがなくなってしまう。それはそれでいい人生を送れるのかもしれないけれど、僕は嫌だった。そんなときに無理にやりがいを感じているなんて言葉にして発すると、その言葉が自分を騙して、やりたいことが一切できていないのにハリボテの充実感だけが残されてしまう。
きっと僕がインタヴューした方も、どこかで僕みたいにならないよう。自分を守っていたのだ。僕が莫迦にしていた先輩はそのことに自覚的だったのだ。そのインタヴューした人はしばらく経って、どういう気持ちの変化があったのかわからないが、カメラの前で仕事のやりがいについて堂々と話してくれた。だから、本当は何か別のことをしたかったのか、何か自分で守りたいものがあったのかどうか、気にはなるけれど終わった後に聞くことはしなかった。
今の僕の仕事のやりがいについて書くことをすっかり忘れていました。きっと映画を作ることについて聞いてくださっていると思います。
さんざん映画を作りたいと宣ったクセにこういうこというもんじゃないけれど、映画を作っていても全然心は充足しない。「やりがい」とかない。けど楽しいから続けている。映画を作ることは楽しい。この楽しさっていうのは、自分が思ったとおりにいくこと、ではない。自分の思い通りにならないときに感じるワクワク。撮ってみなくちゃわからないことをやってみたり、予想外のことが起こったりするときに出てくる楽しさ。これはなかなかクセになる。伝わらないでしょう。僕も伝わらないだろうなと思いながら書いています。根本的に説明しづらいのです。楽しいかどうかはあくまで僕の気持ちの問題でもあるし、僕の気持ちというのも日に日に、というか朝令暮改というか、なんなら数時間で変わってしまう。映画の上映直前は、自分の映画を見てとんでもない駄作だと思った数時間後に、いや、そこそこおもしろいんじゃないかなんて思って、夜中寝る前にこんな駄作を世に出しておれの映画人生は終わったのだとひどく落ち込む。そうすると眠れないから、本編の中でもうまくいった一部を見返して、よしよしと心を宥める。そんな気持ちの乱高下に苦しむ。多分、これは僕だけじゃなくて誰しもがこうなっているはず。そんなに不安定になるならやめればいいのにと思われるかもしれませんが、やめられない。なぜかということを今持てる最大のボキャブラリーで言葉にしてみると…見てくれた人の「おもしろかった」の一言がとっても嬉しいからなのです。
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