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評論はどんどん書かれるべきだ

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 4月12日
  • 読了時間: 5分

 侯孝賢は語る。「創作者には、自分の映画制作を振り返って、そこに働いている原理やプロセス、とりわけその原理を語ることはできません。ですから私は、自分の映画について人が書いた評論は見ないのです。相当時間が経って、たまたまふと目にすることがあると、ああ、当時彼らはこんなふうに書いていたのか、などと思います。そしてたいていの場合、それらはまったく当たっていない。研究やら論文やらに書かれたことはほとんど的が外れていますが、外れたなかにもそれなりの面白さはある。」


 僕はたまたま先日、侯孝賢の本を読んでいたのでこの部分を引き合いに出したが、多くの制作者たちが評論家や批評家と倖せな関係を築けていない。仲の良かった俳優は度々僕に「たかはしくんは批評家になりたいのか」と蔑むように迫り、知り合いの伝統芸能に従事している方はLINEのトークの背景画像に「くたばれ評論家!」とポップなキャラクターが叫んでいる画像を使っていた。批評家や評論家は現場を見ておらず、安全地帯から勝手気ままな意見をのたまっているやつだ、制作者はそう思い嫌っている。


 しかし、しかしである。批評家や評論家は制作者の正解を当てる人たちではない。そんなことはどうでもいい。むしろ制作者が思いもしていなかったような作品からの声を聞くこと、作品の正しい誤読こそが本分ではないか。さもなくば作品を作るということは読解問題を作っているということになってしまう。

 とある映画監督の作品にはなぜかたくさん翻る白い布が出てくるとか、ある映画監督の作品で人物が電話ボックスにいるということは四面がスクリーンと化すことなのだとか、ある映画監督の作品群を見ると権力を持つ人物は横臥しているだとか、そんなこと制作者はおおよそ考えていないんじゃないかとか思えるようなことを、しかし”法廷にも通用する証拠”でもって「だから作品はこう言っているんです」と(時にあてがいぶちだと思われようとも)言うこと。これが批評家や評論家がやっていることだ。そしてそれは奨励されるべきことだ。なぜなら制作者はその作品ができあがるまでに数多く見返して見方が定まってしまい、出来上がった後の作品の声を拾うことが難しくなっているからだ。


 少ない僕の経験からいっても、自分の言いたいことを相手に伝えるためのものとして作品作りをしているわけではない。これには侯孝賢も「外国人が撮った映画を見て、そこで最終的に語られるのがたった一つの真理だったりすると、なんでわざわざこんな回りくどいことを、と思ってしまう。」と言っている。つまり直接言葉で言えないからこちらは作品を作っているんじゃないか。しかしということはある程度の言語化の不可能性、そして言葉にしようとするときに生まれる制作者の意図とのギャップ、つまりは誤読が生まれることは構造上仕方のないことである。であるなら制作者はそれを楽しまなければなるまい。さもなくば、勝手に解答不可能な問題を出しておいてそれを嘲笑う神からの視点に鎮座する、最も忌諱すべき偉い偉い作家様になってしまう。それを言うに事欠いて「たいていの場合、それらはまったく当たっていない」なんて。馬鹿馬鹿しいにも程がある。当ててほしいなら当たるように書く(ということはそもそも作品ではないという自己矛盾を孕んでいる)べきであるし、当てられようと思って作っていないなら多様な読みに寛容であるべきだ。


 僕は批評家や評論家にはどんなことであろうと書き込んでほしい。否定されようがかまわない。そんなことは制作者側がどうこう言うことではないと思っているので、ジャンジャン書くべきだ。否定も肯定も、印象批評も表層批評も、とにかく書けばいい。もちろん中には明らかな間違いが書かれていたり、悪意のある投稿、いたずらな攻撃、わけのわからない決めつけ、そんなものも含まれるだろう。構わない。上手に書かれたものだけをアップすべきだとか、作品のためになることしか書いてはいけないなんて「成果が見込めない研究は予算を縮小して、成果を出す研究だけに予算を付ければ科学が発展するのではないだろうか!?」というネットミームと言っていることは同じである。


 その代わり相手にするかどうかはこちらの権利だ。あなたが好き勝手に書いたことを、私は好き勝手に読んだり読まなかったりする権利がある。僕はこれが倖せな関係ではないかと思っている。書く側はどんどん誤読をして勝手に書き散らすべきだし、作る側はそれはどこ吹く風かと作り続けるべきだ。それがあるときお互いに無視できない関係になれていたとしたら、それほど倖せなことはあるまい。


 どんどん書かれるべきだ。作品の評価が良くも悪しきも。あるいは文章の優劣はあれど。近頃はつまらないと思った映画に「つまらない」と言うことを控えている人ばかりだ。あるいは「自分には合わなかったな」とかやんわりとした否定の言葉をオブラードに包んで渡している。僕の監督した映画にはどんどん言ってきてほしい。いや、本当はいかなる映画にも、あなたは書く権利がある。その権利を行使すべきだ。実はこの2つの関係は奇妙なもので、無視しようとするとお互いを意識して、交わろうとすると平行線を保ってしまう。そういうものなのであるから、感想を好き勝手言ってほしい。そうしなければ批評と作品の関係は弱っていくばかりだ。そうでもしないと下火になっていく映画業界が盛り上がるわけがない。

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