カンヌで死者の気持ちを知る
- Sota Takahashi
- 5月23日
- 読了時間: 4分
カンヌ国際映画祭にいた。そこで見た是枝さんの『箱の中の羊』は実子を亡くした夫婦の弔いの話ということになるのだろう。この映画がはたして弔うこととどこまで向き合えたかどうかというのはとりあえずさておき、この映画を見た数日前に実感した弔いに関する小さな経験について書きたい。
小泉義之著『弔いの哲学』は時々読み返したくなる本だ。冒頭に書かれているこの文章は弔うことに関するこの本の基本方針である。
「誰かが死ぬ、私は生きている。誰かが死ぬことと、私が生きていることのあいだには、何の関係もない。誰かの死と私の生は、徹底的に断絶している。誰かの死と私の生の断絶を、さらには、誰かの死と誰かの生の断絶を、思い知ることが弔うということである。」
その後この本は様々な例を出しながら古今東西の弔う行為や、あるいは死体と死者がいかに分離されてきたのか検証していく。僕は完全に理解したわけではないのだが、僕自身は神だとか仏だといったものを一切信じないという信条で、それと共鳴する部分が多いこともあり、とても楽しんで読めた。しかしもしかしたら僕は深いところであまりよくわかっていなかったのかもしれない。そう感じたのは岨手由貴子監督『すべて真夜中の恋人たち』を見たときのことである。
と書いておきながらこれは全く映画の内容とは関係がない。問題はエンディングロールが流れている最中にあった。カンヌではオープニングやエンディングが流れている最中に観客から拍手が送られる。『すべて真夜中の恋人たち』のラストシーンが流れている間ずっと観客は拍手をしていた。エンディングロール中ずっと。途切れない。それはまるでそこにいないけれど協力してくれたスタッフに対して敬意を示しているようでとても美しいことだなと思った。そして僕は、もしかしたら僕がスタッフとして関わった映画でも同じように拍手が送られていたのではないかと思った。もしそうならそれは誇らしいことだなと思ったし、そうであってくれたら嬉しいと思う。
しかし、そんなことを思っていたときにあることに気づいた。このかつてあったかもしれない拍手を僕は一切知らなかったし、今どこかで起きているかもしれない拍手を知らないし、これから起きるかもしれない拍手も知ることはない。僕に送られた(送られる)はずの拍手は僕の人生とは全く関係なくどこかへ消えた(消える)。僕はそんな拍手はどこ吹く風かと生きた(生きる)。
そのときスクリーンに映っていた僕の名前と僕自身は、徹底的に断絶しているということを知った。拍手を送る方は、僕に対しても送ってくれていたつもりなのかもしれないが、そんなものは言うまでもなくまるっきり僕には届いていない。送る側は送ったつもりなのか知らないが、全く意味のないことである。急に僕の中で以前読んでわかっていたはずの「弔いの哲学」が実感を伴って現れた。
スタッフを称えるためにスタッフの名前に向かって拍手をすることは、小泉義之ならば「そのような思いは、〈妄想〉である。」と一刀両断するだろう。
スクリーンに現れている名前と、その名前が表す人物は断絶している。
「しかしこのような断絶を人はたやすく見失う。おぼろげに見てはいても、それを直視することに人は耐えることができない。というのは、誰かの死と誰かの生が、この世ではいつも関係づけられてしまうからである。ほんとうは断絶しているのに、そこに何らかの関係があると思いなされてしまうからである。」
僕も『すべて真夜中の恋人たち』以外の上映で周りの観客に混じって誰もスタッフなんていないのに拍手を送っていたことを思い出した。僕もまた断絶をたやすく見失っていた。断絶を直視することはとても難しい。
図らずもこの断絶を経験できるとは思わなかった。しかもまさか死者側から知ることとなるとは思いもよらなかった。
もっとも『すべて真夜中の恋人たち』の場合は監督と俳優2名をはじめとしたスタッフが来ていた。この拍手がそこにいた人に向けられていたら、至極意味のある行為だ。

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