感性について
- Sota Takahashi
- 5月10日
- 読了時間: 5分
全然連絡を取り合っていない知り合いから急に連絡がきた。お茶でも一緒にどうですかというような内容だった。そんなことをするような仲ではなかったし、僕はその人のことをあまり思い出せなかった。前に初めて会ったときはたしか新宿かどこかの飲み屋で、知り合いの知り合いみたいな感じでいたような…。そんな薄い仲だけども僕はそういうお誘いにはホイホイついていくのが好きなもので会うこととした。
カフェで最近何しているんですかなんて話をしながら、その人は最近”社長になるためのセミナー”とやらに通っていることを教えてくれた。その人が言うには、社長のように人の上に立つ人は感性が豊かな方が良いらしい。多くの人に寄り添うことができるからだそうだ。そのためにその人は感性を高めるべく、映画を始めとした芸術に触れていているそうだ。なぜなら芸術には作家の思い描く世界が描かれていて、芸術を見ることは見識を深めることに繋がるからだという。映画は「総合芸術」なんて呼ばれるように多くの人の力が結集しているからなお良いらしい。
そういう感性を高めることに興味があると思われたらしく僕は誘われたようだ。ただ僕は一応人よりかは多めに映画を見ている者として、その前段階にやや引っかかりが残った。本当に映画を見ることは感性を豊かにするのだろうか。本当に映画には世界が描かれているのだろうか。
それにやたらと神格化されているその「感性」というのは何なのか。「『感性』ってなんですか?」と僕は思い切って聞いてみた。そうしたら「感じる力のことだ」と返ってきた。そりゃそうだろうよと思いつつ、口では「なるほど」と言ってゆっくり頷いた。かといって僕自身「『感性』って何ですか」と聞かれたら答えづらい。
「今度一緒にセミナーに行きましょう」とか言われるのかなと思ったが、特にそんなことはなく、なんとなく近況報告とセミナーではどんなことをしているのかを教えてくれて、解散した。
そこから僕は少しばかり考えた。感性とはなんだろうか。言葉でなんとか説明できないものか。
そして多分こういうことだろうということを思いついた。それは「感性とは、何かと何かが『似ている』あるいは『似ていない』ということに気付く力」ということなんじゃないかということだ。
例えばこの文章を読んでいる液晶画面は何に似ているか。窓かもしれないし、本に似ているとも思えるし、りんごに似ているように見えてもいいし、エッフェル塔に似ていてもいい、円周率に似ているかもしらん。もしくは似ていないだろうか。そこに気付く力こそ感性なのかもしれないなと思った。要は関係のないものを接続する力というべきか。
ただ”似ているもの”を見つけることは簡単だが”似ていないもの”に気付く力は厄介そうだ。「トマト」と「イチゴ」が似ていることには気付くが、「トマト」と「出初式」や「イチゴ」と「エアコン」が似ていないと気付く人は少ないはずだ(もちろん似ていると思ってもいいのですが)。「ボクサーパンツ」も「グラフィックボード」も先に書いた二つに似ていない、と僕は思う。しかしだからこそ、結びつけられる人がいたらそのアクロバットさに感銘を受ける。言ってみればこの部分が一般的に感性と呼ばれるものの持っている神秘性なのではないか。
感性が鋭い人というのは、何かを見たときに「あ、これは何かと似ている(あるいは似ていない)」と思える人のことであり、逆に感性が鈍い人というのは、何かを見ても似ているものも、また似ていないものにも気付かない人のことだ。何も思わない人は感性が鈍いのだけれど、しかしあまりの革新性に言葉を失う状態はまた、いかなるものにも似ていないということに気づいている時点で感性が働いていると言えるかもしれない。
「感性」という言葉は、よく色々なジャンルの言葉が前につく。映画的感性、音楽的感性、数学的感性、等々。こう言った言葉にも先の定義はぴったりと当てはまるはずだ。ある映画を見て別の映画を思い出したり、思い出した末に今見ている映画との差異を発見したりすることが映画的感性の鋭い人ではないか。
涙もろい人がよく「感性が鋭い」とか言われるが、これは人が気づかないような非常に些細な出来事が過去に体験した何かに似ていると感じるから起こっているのではないだろうか。
では感性を鍛えるためにはどうしたら良いのだろうか。もしあのときの社長になるためのセミナーに通っていた人が目の前にいたら、感性を鍛えるために何をしたらと言えただろう。
まずは別に映画や芸術作品に触れなくてもいいんじゃないのということは言いたい。芸術に触れることは、知っていることを増やすから似ていると思えることも増えるわけで、そういう意味で感性は磨かれるかもしれないけれど、同じ時間テレビゲームをしていても、穴掘りをしていても、やはり同程度に感性は磨かれるのではないか。同じ時間を使っているのだから入ってくる刺激の量は同程度であるように思う。ただその入ってくる刺激に敏感であったほうがよかろうから自分が好きなことをすべきじゃないか。もしくは自分が、料理でも、場所でも、映画でも、「なんか好きだな」と思えることを思い出して、それのどんなところが好きなんだろうとか、似た経験はなかったかとか、あるいは何がなかったから好きだったんだとか、思い出したりした方がいいんじゃないか。好きなことをもっと好きになるための行動を続けていくことが結果感性を高められると僕は思う。
そんなことを考えて、いや、もしあの人が目の前にいてもこんなアドバイスはしないだろうと気づく。そんな親しい仲ではなかったじゃないか。
そんなあの人は感性を高められただろうか。社長になれただろうか。セミナーには通っているのだろうか。もう何年も会っていない。会いたいとも思わないが、向こうから会おうと連絡してきてくれた割には全くその後音沙汰がない。そういえばその人が会おうと連絡してきてくれたことや、話してくれたセミナーの内容は、ネットワークビジネスの説明会に似ていた。僕はもしかしたら、いい鴨に似ていなかったのかもしれない。
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