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俳句は批評の時代へいくか

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2025年4月26日
  • 読了時間: 5分

更新日:2025年5月8日

 全俳句データベースというのがとっても好きだ。めちゃくちゃおもしろい。どういうものかというと、俳句は五七五という定型詩であり、使える音は五〇音と有限であるから「あああああ あああああああ あああああ」から「んんんんん んんんんんんん んんんんん」までの全てのパターンを作れば、この世にある全ての俳句だけでなく(ここがポイントなのだが)これから生まれる全ての俳句を網羅したことになるのだ。こんなバカバカしい話もない。

 例えば「大根引き大根で道を教えけり」は、俳句No.408477893087505270088222002464645である。


 僕は荻窪にある俳句の句会に参加している。荻窪に一人暮らししていたときはよく参加していたのだが、横浜の実家に戻ってきて以降は単純に地理的に遠いということもあり、イベントがない限りは参加できていない。ただ参加し始めてから俳句を作る習慣というか、気持ちというのが芽生えてしまい最近は週に一度の讀賣俳壇を欠かさずチェックするようにしている。俳句を詠み始めるとおもしろいことがたくさんある。そのことを前にも書いたが、シンプルにいえば普段見ている風景の解像度が上がる。ちょっとした自然の変化に敏感になり、四季の変化を感じられる。僕はこういう「何気ない日常が実はとってもおもしろいんだということを発見する系」の活動が好きだ。

 好きだからこそ、俳句で偉そうに語られる侘び寂びだとか、日本の心だとかが、これから発見される分も含めて全てもうすでにこの世にあるなんてサイコーなアイデアだと思う。

 つまりこれから生まれる名句と呼ばれるようなものや、僕やあなたが読んで心打たれる句というのは、今まで考えられてきた「創造行為」というものから生まれるわけではなくなったのだ。膨大な俳句データベースの中に作品は既にある。こんな表現は他にあるだろうか?既にあるものの中から最適なものを探していく作業は、どこか誰にも気づかれない日常に目を向けていく作業と通じるものがある気がしてとても好きだ。


 翻って映画を作るというのは、どうがんばろうともこれから撮られる作品が既に撮られているなんていう状況はない。過去に撮られた映像を再構成して、新たな映画を作ることはできるだろうし、そんな映画はたくさんある。しかしそれでも未来に作られる映画が既にありますという状況にはならない。だから無限の可能性が開かれている。といったら随分綺麗に聞こえるが、僕なんかはその無限を前にして何もする気が起きなくなってしまうときがある。有限個の俳句からおもしろいものを探していく、そういう発掘調査のような作業が好きだ。


 そのうち俳人というのはデータベースを漁りまくり、何か意味があるものを探す存在になるのだろうか。それもおもしろそうだ。僕はまた別の楽しみ方で、全く意味のない文字の中になぜか何かを感じてしまうという道を追求する方向もあると思っている。


 全俳句データベースからランダム検索をしてみる。「えてぴぺつ えあそごめっわぶ よぉやにゔ」と出てきた。俳句No.23916354378664013460953449448119。まだ誰もこの句を詠んだ人はいないだろうが、遙か未来にこの句が当たり前に読まれたとしたらどうだろう。上五と中七が「え」から始まり韻を踏んでいる。上五の「えてぴぺつ」というのの「えて」というのは「えてして」という意味だと僕は思うから「とにかく『ぴぺつ』なのだ」という意味であろう。中七、この頭の「え」は「絵」だろうか。「ゔごめ」というのは「蠢く」の頭の「う」が「ゔ」になったことで蠢きの強さを伝えている。とにかく激しく絵が蠢いているのだ。「っわぶ」というのは、何か動きが途中なニュアンスがある。声に出してみると「ぶ」で運動がぶつ切りにされたような、停止されたような印象を受ける。これが「うごめっわい」だとこの運動が継続されていくその只中に読み手がいる、そんな情景が浮かびますな。下五、「よぉやにゔ」これは「よぉ」は「夜を」の意でしょう。ひらがなにすることで広がりが生まれますね。「やにゔ」これは外来語です。セルビア語で「Ja niv」と書きます。絵が蠢いて夜、「やにゔ」のです。「月に吠える」という朔太郎の詩集がありますが、「よぉやにゔ」には「夜が吠える」という意味ではなさそうですな。「吠える」の「ほ」のような遠くまで響き渡らそうという意図は見えませんので、例えば「知る」とか「理解する」的なイメージでしょうか。「絵が蠢いていたが動きが止まったことで夜を知る」それが「とにかく『ぴぺつ』なのだ」と。「ぴぺつ」とはひょっとしたら季語なのかもしれません。今の所季節感がありませんので。いずれ僕たちの目の前に「ぴぺつ」が現れたとき、ああこれだったのかと”知る”…ではなかった。”やにゔ”のです。


 これからできる俳句も含めて全てもう存在しているということは、作者という言葉に意味はなくなるだろう。今までは「詠み人」なんて言われていたが今後は「第一発見者」と呼ばれる。奇抜なセンスや突飛なアイデアに大した意味はなくなり、発見した句がいかに良い句なのか、その評論や批評が重要になってくる。いかに読むか、その勝負になってくる。全ての映画は撮られてしまった、とヌーヴェル・ヴァーグの連中が感じていたようだが、俳句界は本当に文字通りの意味で全ての俳句は詠まれてしまっている。となるとヌーヴェル・ヴァーグがそうだったように批評家=作家が出てくるだろうか。

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