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カラオケが苦手である

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 1月11日
  • 読了時間: 3分

 カラオケが苦手である。音痴だから恥をかきたくないということもあるが、それよりなによりカラオケという場にうずまく政治が苦手だ。

 誰と一緒にいるか、どんな世代なのか、何人いるのか、盛り上がった方がいいのか、逆に下手に盛り上がらない方がいいのか、この曲を入れたら狙いすぎだろうか、しかし知らない曲を入れてもしょうがなく、世代的に一番若いから最近の若者っぽい曲がいいのか、合いの手は入れるか、サビが終わったあとの手拍子はどこで終わらせるのか、聞いていない感じのほうが歌いやすいのか、もうすぐ終わりの時間になるのだったら最後っぽい曲を入れたほうがいいのか、知らない曲だがみんな知っている前提で物事が進んでいるから知っているフリしようか…めくるめく状況の変化の中で正解を当て続けなければならないことに耐えられなくなる。

 「好きなように歌いたい曲を入れればいいんだよ」

 とカラオケ好きは言うのだが、しかしそういうことを言う人に限って、いざ入れるとデンモクばかりをいじって全然盛り上げてくれないのだ。

 時折、誰と行こうが自分の歌いたい歌をいれて、画面をジッと見ながら自分の世界に入って歌う人がいる。常に人の反応をうかがいながら生きている僕は、そんな楽しみ方ができる人を見ると本当に羨ましくなってしまう。ああいうふうに生きたいものだ。


 そんな文句を言いつつも、もし友人が「ごめん!今度3:3でカラオケ行くんだけど一人来れなくなっちゃって、正直好きな人が来るから中止にしたくないんだけど来てくれない?」と言ってくれれば「あったりめえじゃねぇか!」と行く上に、進んで道化を演じられる。音痴だろうがなんだろうが大声で歌っちゃう。

 あるいは、普段カラオケに行かないような人が、お客さんを喜ばせるためにカラオケ接待をしょうがなくすることになり、その要員として来てくれというなら喜んで行く。

 なによりも誰かを助けるという目的があるのならこちらも喜んで行けるのだ。ただこちらからカラオケに行きたいから行くということはない。

 これで困ってしまうのが、お互い気を使ってカラオケに来るという状況だ。僕は経験がある。お互いにべつにカラオケが好きなわけではないのだけど、相手は「髙橋さん、カラオケ好きだろうな」と思って誘って、僕は「誘ってくれた〇〇さんのメンツを保たねば」と思って盛り上げる感じで歌う。お互いに全く楽しくないのに表面上だけどちらも楽しそうだという不気味な状況ができあがる。それなのにお互いがお互いを「気使って接待してやった」と思っている。アンジャッシュのコントなら笑い声のSEが入るところだが、現実は誰も笑ってくれない。貼り付けたような笑顔があるだけだ。

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