top of page

思い出にならない日々を過ごしたこと

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2025年10月25日
  • 読了時間: 4分

 大学時代のあるとき。仲の良かったグループの中の1人が「みんなで週末、富士山に行ってきた」と話していた。えー、いいなぁ富士山、おれ登ったことないんだよなぁ。そんなことを思ってからふと「あれ、おれは呼ばれていないぞ」ということに気づく。あー、そうか。おれはこのグループのレギュラーメンバーのつもりだったけど、みんなにとってはゲストだったのか。彼らは彼らの中で過ごしたい時間があって、おれはその中にどうやら入れていない。そのことに、急に気づいてしまう。


 『わたのはらぞこ』を見ていて思い出したのは、この寂しさだった。主人公のヨシノは2回、人の背中を眺めることとなる。それは「点と」の主宰である加藤さんと豊島さんの背中だ。

 加藤さん扮するばんちゃんはヨシノと歩いているときに、道端で知り合いのおじいさんと遭遇する。するとばんちゃんはおじいさんと話し始めてヨシノから遠ざかる。取り残されるヨシノはその2人の背中を見る。

 豊島さん扮する半田と終電を逃しそうになり走るヨシノ。ヨシノは途中で走るのを止める。半田はそのまま走り続ける。それを見続けるヨシノ。

 僕はこの取り残されるヨシノを見て、冒頭に書いたエピソードを思い出した。ヨシノが見つめた2つの背中には、ヨシノとは違う時間があった。ヨシノが知らないおじいさんと話して遠ざかるばんちゃん、終電を逃すために走る半田。僕はヨシノが生きているリズムというのがばんちゃん=半田とは違うことから生じるこの取り残されショットを見て、富士登山に誘われなかった自分を重ねた。ヨシノ、きみの寂しさをおれはわかるぞ。


 『わたのはらぞこ』はしかし、そんなヨシノに多少の希望を残してくれる。ただそれはヨシノが希望を得るということではない。見ている私たちだけが彼女の希望を目撃する。

 車の中で歌を歌うシーン。ヨシノとばんちゃんと半田の3人は1台の車の中で(ということは同じスピードで)走りながら歌をうたう。その空間にヨシノは入れてもらえている。

 ほぼ一瞬しか映らない温泉シーンも、半田のいる空間にヨシノは入れてもらっている。

 いい時間だなぁ、と取り残されたことのある僕は思う。彼女はこのとき2人のレギュラーメンバーになれるかどうかの適性検査を受けている。


 ただヨシノはこれらのリズムが合う時間を過ごしていることが、とても貴重でとても光栄なことだということをわかっているだろうか。僕にはそのことをわかってるようには思えなかった。おい!ヨシノ!おまえが今過ごしている時間は尊いぞ!と声をかけてやりたくなる。もっと言えば編集(が誰なのかクレジットされていないのでわからないが)しているやつ!おまえさんもおそらく気づいていないだろう。取り残された者がどれほど寂しいのか。そしてヨシノがどれほど貴重な時間を過ごしているのか。あまりにもこのシーンが短すぎるのではないか!

 蛇足かもしれないが勘違いを避けるために書いておくと、この映画には終盤にもばんちゃんと半田と一緒にラップをうたうシーンがあるのだが、あれは別に貴重な時間ではないと思っている。あくまでゲストとしてのヨシノがそこにいただけだという状況なのは、映画を見た人ならわかるはずだ。ばんちゃんに情けをかけてもらった。おそらくヨシノはヨシノで「あ、自分は今情けをかけられているな」と自覚しているはずだ。そんな時間は何も彼女を救わない。


 爆笑問題の太田光さんが高校時代「死んでもいい」と思っていたときにピカソの絵を見て感動したという話がある。感動したその後、感動できた自分も好きになれたという。ヨシノが何に悩んでいるのか、どういう寂しさがあるのかは最後までよくわからなかった。しかし、少なくとも僕にとって羨ましいような時間を過ごしていることを多少なりとも彼女自身が自覚できれば、多少救われるきっかけになれたのではないか。自分自身を彼女が認めることできたのではないか。

 見ながらそんなことを考えていると、翻っておそらく僕自身もまたそういう時間を何の気なしに過ごしていたのだろうということに気づく。あの週末、富士山には登らなかったが、そのかわり過ごしていた別の週末があった。それが仮に惰眠を貪り続けていたとしても、一人で映画を見ていたとしても、いい時間だったはずだ。何をしたのかまるっきり覚えていないが、覚えていないような惰週末を過ごせていたことは、幸せなことでもある。自分が気づいていないだけで、誰かが羨ましがるような時間をきっとどこかで過ごしているはずだ。そう思ったとき、僕自身もどこか救われる気がする。富士山を一緒に登れなかったのは、やはりチトサビシイのだが、その代わり思い出にならない日々を彼らは過ごせなかったのだ。



 そうだ、もし似たような話を持っている人がいたら、一緒に富士山に登ろうとは言わないけれど、コンビニでワン缶しながら散歩でもしましょう。連絡待ってます。

最新記事

すべて表示
エッセイを書いた2025年

何を思ったのか2025年はエッセイを書いてみようと思い立ち、1年間ここで書いてみた。書いてみてわかったのだけど、僕の場合は自虐にはしらない限り、かなり高い確率で求められてもいない自慢や自分語りになってしまうということだ。恥ずかしいことだけど、油断するとすぐに自分語りをしてしまう。かなりの分量を書いてみて、読み返してみて恥ずかしくなって全部削除した文章がたくさんある。  おいおいどこの巨匠が書いてい

 
 
 
カラオケが苦手である

カラオケが苦手である。音痴だから恥をかきたくないということもあるが、それよりなによりカラオケという場にうずまく政治が苦手だ。  誰と一緒にいるか、どんな世代なのか、何人いるのか、盛り上がった方がいいのか、逆に下手に盛り上がらない方がいいのか、この曲を入れたら狙いすぎだろうか、しかし知らない曲を入れてもしょうがなく、世代的に一番若いから最近の若者っぽい曲がいいのか、合いの手は入れるか、サビが終わった

 
 
 
今夏の思い出

今夏、長野県の木曽で滞在した中で最も思い出深いのはmicciさんとの出会いだった。micciさんは木曽の山中で旅館を経営している一児の母である。息子のnaggieは10歳の少年。naggieはわんぱくで、虫が好きで、虫が嫌いな僕にたくさんのアブがとまっている掌を見せてくれる。「ねえママ!」と度々micciさんを呼んで一緒に遊んでほしいとせびる。  10歳くらいの子供はすごい。仕事柄子供達と一緒に映

 
 
 

コメント


© 2020 Sota Takahashi

​st

bottom of page