『あなたの瞳に話せたら』のまなざしについて
- Sota Takahashi
- 2024年12月16日
- 読了時間: 3分
更新日:5月10日
映画に出てくる単にフォトジェニック的に美しいショットというのが僕は苦手だ。意味があったとしても時間経過や、登場人物の心象風景(そんなものが映せるということが原理的に僕にはわからない)、漠然と間がほしかったり、同カットの複数テイクを無理やりつなげるために利用される。あってもなくてもいいショットであり、単に美しいだけのショットに時間を費やしているのだったら切ればいいのにと思ってしまう。
『あなたの瞳に話せたら』にもいわゆるフォトジェニック的に美しいショットというのがある。夕日が、画面奥の川を照らす。光が川に反射して美しい。そのさらに奥には橋がかかっていて、周りに目立った建物がないヌケの良さもある。いつもなら苦手意識を持ってしまうのだが、僕はこのショットがとっても好きだ。そこにはフォトジェニックを超えた美しさが、監督佐藤そのみがそこに”いた”ということの、記録がされていたからだ。
この映画の主人公は監督の佐藤そのみさんである。彼女は3.11による津波で妹を亡くしている。佐藤そのみさんの妹は当時、石巻にある大川小学校にいた。そしてそこで津波の被害に遭い亡くなった。それから8年後。佐藤そのみは妹に向けて手紙を書き、それを朗読するところから映画が始まる。続いて大川小学校の当時小学5年生で奇跡的に助かった男性、佐藤そのみさんと同じく同じく妹を亡くした女性、この2名も同じく手紙を書くという展開だ。佐藤そのみさんが妹に向けて手紙を書くのはこれが初めてではない。どうやら何度も書いているらしい。最初は涙しながら読んでいたが、撮影がされた現在はカメラの前で普通に読んでいる。映画内で佐藤そのみさんも含めた3名に共通していたのは、いや、佐藤そのみさんのカメラが映したのは、その3名が3.11という出来事に対して、各々が距離をとれている姿だ。どの登場人物も感情的に何かを伝えようとはしない。それは大川小学校で津波の被害を伝える中年の大人達もまたそうである。この距離感。8年という歳月の厚みから自然にできうることではない。彼女達はこの距離を、もちろん自然にということもあろうが、選択したのだ。私たちはその距離感ではない人達もいることを、震災遺族の方々に手紙を書くという行為の提案を複数人から断られてしまったというエピソードを通じて、知る。僕はこの佐藤そのみさんを始めとした、距離を取れている人々の態度に敬服する。
以前このブログでは『ドライブ・マイ・カー』についての記事で声について書いたが、この映画のナレーションとして語られる佐藤そのみさんの声はとてもいい声だった。優しく、力強く、そしておそろしい。こんな声になるまでに、いったいどれほどの苦しみを乗り越えなければならなかったのだろうか。震災との距離をどうやって構築していったのだろう。そんな過去のことを思い返さずにはいられない。
映画の終盤に佐藤そのみさんは、上記の奇跡的に助かった男性と一緒に大川小学校で撮影をする。そのときに現れるのが件の美しい逆光のショットである。画面手前には大川小学校の建物。このアングルは大川小学校の敷地内から撮ったのであろう。僕はこの景色を見つけられる佐藤そのみさんのまなざし、それをカメラで撮っておこうと思えたこと、は本当にすごいと思う。どこか旅行に行って夕日を撮っているのとはわけが違う。そこで悲劇が起きたその場所で、見つけている。もし震災との距離がまだわからなかったら、この景色は見つけられなかったかもしれない。そもそもこの学校に来られなかったかもしれない。あるいは、冒頭に書いたような機能を景色に背負わせたかもしれない。けどここには感傷的なものは一才無い。そこで見つけたんだということ。この乾いた記録が、逆に僕を泣かせた。
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