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『ホワイトハウス・ダウン』映画で人をどう動かすか

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2024年1月1日
  • 読了時間: 7分

更新日:5月8日

 僕は人からヨーロッパ映画とかいわゆるアート映画ばかり見ていると思われていて、ハリウッド映画を莫迦にしているという偏見を常に受けている。「いやいやハリウッド映画も見ますよ」と言っても、それは1つの娯楽のため、ヨーロッパ映画に劣る存在としてのハリウッド映画を見ていると、なぜかそう思われる。そういう偏見の被害にはもうとっくに慣れているが、だからといってこれからもそんな被害にあい続けるのは気持ちのいいことではない。それに、個々の映画がどの国で作られたのだとか、どういうジャンルかなどによって見方を変えられる程の器用さを持ち合わせていないのだ。そういう器用な人間だと勘違いしてくださるのはありがたいが、こちらはただ生きているだけなのにその不器用さ故に誰かに幻滅されたりする。僕はちゃんと莫迦なのだということを今一度知ってほしいので、このエッセイを書きます。



 脚本を書いて、カメラを準備して、俳優も呼んで、いよいよ撮る段階になった。そこからスタートするにはなかなか難しい問題がつきまとう。どうやったら俳優が動いてくれるのかということがさっぱりわからない。映画の中に映る人物の運動というのは、物語の展開としてそう動いてほしい必然があったりするから、動いてくれないと困る。しかし、人はそう簡単に動かない。なぜそう簡単には動いてくれないのか、それはあの忌避すべき映画の「ご都合」が顔をのぞかせるからだ。

 例えば、Aさんがある日街中を歩いていると、今は仕事をしているはずの恋人のBさんが自分の友達と仲良くカフェでお茶している姿を目撃するシーンを撮るとする。さあ、AさんをどうやってBさんの方に向かせるのか。こここそ映画監督の腕の見せ所だ。絶対にやってはいけないことは、何気なくそちらを見るということ。たまたま視線を動かして、たまたま恋人が視界に入ったのでは、もはやなんでもたまたま起こったことにしてしまえる。そんなご都合のいい映画では、これが実際に起こったことだという気持ちはたちまちどこかへ消え去るだろう。しかしこの「何気なくそちらを見る」という演出はそこかしこで見受けられる。それほど誰しもやりがちだ。あなたが撮影現場で「何気なくそちらを見てほしいんですよねぇ」と俳優にポロッと言うと「できますよ」と言ってやってくれたりする(ところで俳優さんは意外とやってくれるし、しかも上手い)。よかったよかったと思ってそのシーンの撮影は終わる。簡単だ。しかしこれは絶対にやってはいけない。撮影が終わって編集するときに気づくのだが、よほどのことがない限り、わざとらしさは払拭できない。ああ、やってしまったと頭を悩ます。なぜ起きるのかといえば、物語が伝わりさえすれば基本的には映画として成り立ってしまうからだ。どういう理由であろうが視線が誘導できれば、物語は展開するのだからそれでいい気がするのだ。


 しかしそんなご都合を許すわけにはいかないと、悩んでいる人たちがいる。ローランド・エメリッヒはその1人だ。『ホワイトハウス・ダウン』はその典型だ。単なるディザスター系の映画で、破壊されていくホワイトハウスの映像やアクションばかり注目されているが、この映画は人の動かし方は恐ろしく丁寧で細かい。そんじょそこらのドラマなんか歯が立たないレベルだ。そのことを確認したい。


 冒頭、女の子が寝ている。スマホが鳴り、起きる。光るスマホを見ると、ニュース速報が流れ、毛布をかぶってニュースを見る。するとそのニュース関連で窓の外からヘリの音が聞こえてくるので、毛布をどかして、ブラインドを上げると、ヘリが見える。この女の子の運動が全てリアクションによって成立していることに注目したい。特にヘリを見るという動作のために毛布とブラインドという2枚の遮蔽物を準備した上に、それを剥がしている。簡単に思えるだろうが、意外と意識しないとできるものではない。ところで、このときに窓は開けていないのだが、それはこの後の展開として遮蔽物なくヘリに近づくので今は開けさせていないのだ。


 このまま全シーンの話をするとさすがに読んでくれる人がいなくなってしまうだろうからあと2シーンだけ示しておきたい。


 ホワイトハウスでテロリストがシアタールームに忍び込み、着々とテロの準備をしている。主人公のたった今大統領警備官の試験に落ちた男が、娘と一緒にホワイトハウスの見学ツアーに参加している。主人公はそこでテロリスト達の姿を目撃する。僕が最初に劇場で見たときに、この映画の丁寧な作りに気づいたのはこのシーンだった。主人公の男がテロリスト達を目撃するというシーンで、見学しているのだからこの男はウロウロしながら「何気なく」その方向を見ることだってできたはずだ。しかしエメリッヒは、この男がテロリストを目撃させるためにわざわざ青い光を顔に当てている。その光が気になった男が、光の方を向くとシアタールームのプロジェクターから出る青い光であることがわかり、その下でテロリストが準備をしている。おそろしい丁寧さで視線の演出を行っている。エメリッヒはこの視線誘導のために、シアタールームの修理とテロリストをからめたのではないか。


 さてここから映画は、たった今大統領警備官の試験に落ちた男が、結果的に大統領を警備するという展開をむかえる。この「大統領警備官だから大統領を警備するのではなく、大統領の警備をしているから大統領警備官になる」という物語にも映画的な興奮を感じるのだが、一旦視線の演出に戻る。ここまで人物の運動がリアクションであることを確認してきた。では誘導されない視線はどうなるのか。


 物語も終盤、男は娘を助け出そうと奮闘している。娘はある部屋に閉じ込められている。そこには大きな窓があり、男は外から娘の存在を確認する。そこで男がするのは祈ることだ。「こっちを見ろ」「エミリー振り向け」おおよそ聞こえるはずもない外から男は囁き、祈る。が、娘のエミリーは振り向かない。ちなみにエミリーは閉じ込められて入るものの、身体を拘束されているわけではないので振り向こうと思えば振り向ける。しかし振り向かないのは、「何気なく」というご都合を決してエメリッヒは許さないからだ。さあ男はどうするか。どデカい車でその部屋に突っ込むのだ。その音なのか、振動なのか、光なのか、とにかく振り向かざるをえない状況になったエミリーはようやく父の方を向く。


 『ホワイトハウス・ダウン』の評価はまず1つのディザスター映画としてくだされている。映像の迫力やリアリティで判断することはできる。ただそれでは規模の小さい低予算映画を作る人にはなんの参考にもなりやしない。もう1つは語られている内容についての評価もできる。主人公の男の行動は手放しに評価できるものではない。最後の段落で扱ったシーンでは部屋に車で突っ込んだ後、男は娘の目の前でガトリングガンを使って悪役をぶっ殺している。いくらアメリカの滅亡が目の前にあったとしても正義のために人殺しをするとは。しかもかなり残忍な方法で。ただ少なくとも、いかに人を動かすのか、映画をどう語るのかという点では、下手なドラマ映画よりもはるかに映画演出の非常にプリミティヴな問題を考え続けている、とても丁寧な演出をしている映画だ。極端に言えばセリフがなくても展開を追うことができる。この点で『ホワイトハウス・ダウン』はこれから映画を作ろうとしている人たちにとっても、参考にできる部分がたくさんある映画だと思っている。


 逆にこうした、いかに語るのかという視点がすっぽり抜け落ちて、何を語るのかに終始しているだけなら、それはヨーロッパ映画だろうがアート映画だろうがハリウッド映画だろうが、つまらないものになってしまうだろう。

 僕が知り合いに『ホワイトハウス・ダウン』が好きだというと、あえてハリウッド映画を出すことで奇をてらったのだろうとか、変わった人だと思われたいのだとか、思われがちで、毎回歯痒い思いになる。僕が映画を作っていくときにかなり参考にしてしまうレベルで好きだということがこのエッセイから伝われば嬉しい。

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