野田真吉の真信について
- Sota Takahashi
- 2023年10月12日
- 読了時間: 4分
更新日:2023年10月13日
山形国際ドキュメンタリー映画祭2023に参加していた。僕は『新日本地理映画体系』シリーズ以外の全てのプログラムに参加し、もう今回は野田真吉を見に山形まで来ましたって感じで、その合間に別のプログラムをちょこちょこ見ていた。そんな野田真吉映画漬けの日々だったので、彼の職人的な意識を一つ一つの映画の中から大小あれど感じるところがあったのでこの記事を書くことにした。
野田真吉のある意識を初めて感じたのは『東北のまつり・第三部』を見ていたときのこと。映画の最初はまつりで使用する木を伐採しに行くところから始まる。ある男が雪山に登り、めぼしい木を見つけて、米をまく。そして手を合わせて祈る。この祈りのショットは2回のカット、つまり3ショットに分けられていた。そのショットを見たとき、この人はひょっとして祭りや神事のある”神聖さ”を映そうなどとは思っていないのではないかと思った。3つのショットに分けられて映されるショットは、それぞれ(記憶が定かではないが)ロングショット、ウェストアップ、別アングルのロングショット、であった。もしここに何か画面に映らない神聖な”何か”を映そうとしたり、そこに感じろというメッセージがあるならばそもそもカットを割ろうだとか、なんとも中途半端な3ショットで構成しようと思うのだろうか。むしろそうした神聖さを剥がしてやろう、そのもの自体を見つめようという意思がそこに現れているのではないか。
考えてみれば今回の特集で何かを仰々しく撮った瞬間はあっただろうか。この映画で誰か1人の人物が主人公となった映画はフィクション映画として撮られた『谷間の少女』と『機関車小僧』の2本だけで、基本的にはとある村の群衆であったり、ある企業の人々であったりした。個人の誰かが主人公になるようなことは避けている。『鳥屋の獅子舞』の最後、獅子舞のお面を取ろうとする人たちの中に撮影の別班だと思わしき映画のカメラをかついだ男が映る。そのカメラはお面を撮ろうとする人を正面からねらっている。しかし、その正面からのショットは本編では一度も使われていない。僕の勝手な憶測だけれど、どうもカメラの位置からしても場所にしても、この素材は若干”キマリすぎている”気がしたんじゃないか。わざとらしく主人公になってしまう。そんな画面だったのではないか。
神聖さを避けた野田真吉映画はでは、何を撮ろうとしていたのか。『東北のまつり・第三部』の祈りのシーンは、さもなんてことないかのように撮られているが、それとはうってかわって餅つきのシーンではバッチリ決まった照明を作っていることに注目したい。この餅つきは正月の恒例行事の一つで、画面手前では複数人の男が餅つきを同時にして、その後ろで炊事場にいる女性達が映る。照明は夜に撮られたのか暗く、その中で手前の餅つきと後ろの炊事場にバッチリと照明が決まっている。特に炊事場の照明はバックライトまで立てられて、その行為を美しくとらえている。その姿を見て、野田真吉の興味は神的な何かをとらえようということではなく、常習的な運動を撮ろうという意思に貫かれていることに気づいた。
ドキュメンタリー映画では、しばし何かを初めて行う姿が映る。ドキュメンタリー映画がジャーナリズムと結託するとき、そのほとんどに映るのは初めて行う運動だ。例えば梁英姫(ヤンヨンヒ)監督の『揺れる心』は、初めて自らの本名を発表する在日韓国人の高校生の姿がその物語の中心にある。その他、誰かの死や、生誕や、成長過程がドキュメンタリー映画の主題となるのは、それが一回きりでかけがいのない瞬間だからである。
野田真吉映画はどうか。『機関車小僧』の映画で一際目をひいたのは、その物語以上に、突如として挿入される機関車に石炭をくべる練習をしている人の、その常習的な動きだった。何度も何度も繰り返し行ってきたであろう常習的な運動がカメラの前でまた繰り返し行われる。そこには無駄な動きはなく、リズミカルで美しい。『農村住宅改善』で平面図上に引かれるとある一家の主婦の細かい動きは、それが毎日毎日行われているであろうことを予感させることで、改善の必要性を訴えかける。人間の姿だけでない。科学映画『鋳物の技術:キュポラ熔解』の物質的な美しさは、それが初めて行われる行為ではなく、適切な温度で熔解されればいつでも再現可能なものである。『ふたりの長距離ランナーの孤独』は東京オリンピックで起きたとある事件が映るが、その瞬間を19回も繰り返す作品だったことはひょっとしたらこのことと無関係ではないかもしれない。もちろん、野田真吉が度々撮影をしていた人々のまつりを含めた風俗もまた、その場所で数えきれないくらいに繰り返されてきた風景だ。そこに神聖さは欠かれている。映るのはそこにいつものように、人がいたという事実だ。
死や生とは無縁な、その中間にある生活の只中で繰り返される運動を撮ること。僕が野田真吉特集を見て感じたのはそうした日常を信じる意思であった。
追記:ところでこの常習的な運動を撮ることは、個人的にはとても好きな映画たち、例えば大川景子監督『Oasis』だけでなく、フィクションでいえば杉田協士監督作品のように、現代日本映画のある種の傾向なのだろうか。
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