表現したいことは向こう側から
- Sota Takahashi
- 2024年2月17日
- 読了時間: 3分
1月からこども映画教室のCCAJというプログラムにおとなスタッフ側で参加している。フランスの映画教育プログラムの日本版で、世界中の学校で同じプログラムを行なっている。今年の映画のテーマは「他者性」。中学生〜高校生の参加者12人は最終的に10分くらいの映画を作る。これがめっぽうおもしろい。
こども達は色々な場所に行ってカメラを回す。しかしそれは通常のフィクション映画みたいに何か明確な被写体がいて撮り始めるのではなくて、まずカメラで撮ってみて、色々な発見をしていくというやり方で作品をつくっていく。こども達は撮りながら思いがけず画角に入ってきた人や動物、風にゆれる物を見て興奮したり、編集画面で改めて細部を発見していく。
僕は大学の卒業制作で『風は吹いても、今日』という映画を作った。それも似たプロセスだった。当時何を撮ったらいいのかわらかなかった僕は、けどとりあえず何かを撮らないことには何も始まらないと思い、家族や風景にカメラを向けて、5分とか10分とかとりあえず撮ってみた。僕はこども達と同じように偶然映ったものに興奮していた。もしかしたらこれが今にも続く映画の原体験だったかもしれない。
今日は編集日。しかも明日は上映日。大詰めだ。撮影してきた素材を見ながら、どの素材をどれくらい、どの順番で見せるのかということを実際に編集しながらずっと話し合っている。そういう瞬間に立ち会っている。幸せだ。僕はずっとこういうことをしたかった。
こういう映画作りには難しさがある。そもそも何かを伝えようと思って撮っているわけではないから編集は一筋縄ではいかない。撮った後に、さてこの映画はいったい何なのだろうと考える。大変だ。大変だがこのプロセスはしかし、何かここにも正しさがある気がする。
僕たちが映画を作るときに、何を表現したいのかを考える。僕が映画を作るときにも編集時に散々聞かれた。「髙橋くんは何を一番表現したいですか?」…うまく答えられなかった。それでとりあえず「〇〇の気持ちかな」と答えると「じゃあこっちの方がいいですね」と編集が進んでいく。答えられないとでかいため息と共にいやぁな雰囲気が漂う。申し訳ない…そして夜寝る前に「ああ言えばよかったなぁ」と1人反省会をして眠れなくなる。けど本当は、そもそも答えを持っていない。こっちもよくわからない。よくわからないけど、こう繋いでみたら何か見えるかもしれない(見えないかもしれない)。そういう遠回りをしたかったのだと思う。そうやって右往左往したときに「向こう側」から、映画から教えられることがある。
『風は吹いても、今日』を撮ったときにそんな感じがした。「ああ、僕はこういうことを表現したかったんだ」ということを、ああじゃないこうじゃない編集しているときに、映画から教えてもらった。編集を散々繰り返して、順番を捏ね繰り返して、やっぱり最初の順番に戻すと、ようやく教えてもらえたこともある。何を表現したいのか、そのときにようやくわかった気がする。
今こども達は、あと僕も、その「向こう側」の声を待っている。聞こえてきてほしい。
ちなみに『風は吹いても、今日』は結局どこの映画祭にもかかることなく、上映の機会もなく、今も僕のHDDの中に眠っている。僕にとってはたくさんの発見をくれた映画だけど、残念だ。が、そういうことも、まあ、ある。もし見たい方がいればお見せできますのでいつでもご連絡ください。
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