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芸術に対する公的資金について

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2020年9月20日
  • 読了時間: 6分

下記記事は2019年8月15日こちらで公開したもののBUです。

最近気になったことが2つある。

1つは、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」にまつわること。流れはこちらに記されている。

もう1つは、UNIJAPANの今年度の海外映画祭出品等支援事業で、予算が削られたこと。

これは僕の知り合いでもある、池添さんのツイートを引用する。


この2つのニュースには、芸術に対する公的資金をどう考えるかということが共通の問題としてある。

ここで僕の考えをまとめて書いておく。

ちなみに先に書いておくと、僕は「表現の不自由展・その後」は中止にすべきではなかったと思っている。


公的資金の優先度について


基本的に芸術作品には大した力はないし、役に立たないものだと思っている。

自分で映画を作っておいてこういうことを書くのもなんだけど、映画を見ることは何の役にも立たない。映画を見れば飯が食えるわけではもちろんない。

極端なことを言ってしまえば、映画にできることは画面を見せて音を聞かせることだけだ。それ以外のことは映画に付随するものだと思っている。それが感動するものとなるかもしれないし、ならないかもしれない。誰かの人生に役に立つかもしれないし、立たないかもしれない。そういうものだと思っている。

他のジャンルの芸術作品だって、それにできることはかなり限られていると思われる。

何かメッセージを伝えたいのであれば直接言ったり書いたりした方が早いし効果的だと思う。


だから芸術作品を作ったり展示したりする際にかかる費用の負担というのはかなりリターンの低い投資のようなもので、

だから芸術作品に公的資金が割り振られることは、優先度が低いのは当然だと思っている。


もっと経済が活発になったり、弱者が守られるために税金は使われるべきだ。


例えば「明日から医療費の自己負担額が3割から5割に増えます。その分余った税金で絵画を買います。」と言われたらおかしいと思うだろうし、「明日から所得税が倍になります。その分の税金を映画制作費に当てます。」と言われれば文句も言いたくなる。


芸術に支払われる公的資金は言ってみれば”おこぼれ”のようなものだ。

本来支払う必要が早急にはないけれど、無いよりあったほうがましだから援助する、そういうものにすぎない。


つまり言ってみれば「募金」のようなものなのだ。

コンビニのレジの横にある募金箱、あれにお金を入れているのと変わらない。

私たち(納税者)はある程度の税金の支払い先を募金に当てている。


芸術に対する公的資金は募金と同じ


芸術に対する公的資金は募金、そう考えると「表現の不自由展・その後」の問題にどう対応すべきかが見えてくる。


東日本大震災のときに寄付金を受け取った方がそのお金でパチンコをしていたということがあった。

このことは今回の「表現の不自由展・その後」の問題と似ている。

芸術はリターンの低い投資であるし、パチンコもまた同じ性質を持った遊戯である。

つまり「津田氏はお金をもらい、そのお金で展示を行なった」ということは「寄付金を受け取った方が、そのお金でパチンコをしていた」ということと相似の関係にあると思う。


あなたがもし寄付金をパチンコに使われることが良くないと思うのであれば、あなたがすべきことはパチンコの遊戯者を特定してその人を攻撃するのではなく、寄付金の支給方法を見直すよう提言すべきだ。

なぜ寄付金の使用用途を限定しなかったのか、現物支給ではだめだったのか、寄付金を支給した者に文句を言うべきである。

「表現の不自由展・その後」に文句があるのならば、津田氏ではなく、なぜ公的資金の使用用途を限定しなかったのかと問うべきである。


ちなみに僕はパチンコに使用しても良いと思っているので、何の文句も言わない。それが心の安らぎをもたらすこともあろう。

ただ、その募金が正しく使われていないのであれば、文句を言う。例えば募金したお金が、受給者のもとに行かずに、募金を訴える人々の給料となっていたりしたら問題だ。


UNIJAPANの件については、これに対して「もっと予算を出せ!」というのは間違った態度だということは当然だ。

しかし僕たちはまた納税者であるので「減らすのは構いませんが、その分の税金はちゃんと有効利用されているのですよね?」と問うことはできる。その利用先を確認して是正を促すこともできる。ただ「もっと芸術に税金を使え!」と言うことはできない。せいぜいできるのは「すみません、ちょっと恵んでもらえませんでしょうか?」と言う程度のことしかできない。


ちなみに


「表現の不自由展・その後」の問題でツイッターを見ていると、

「芸術作品なら何をしてもいいのか」

「こんなのが芸術なのか」

ということを指摘してクレームをつけている人もいるが、こういう質問に対しては一言「はい。」と答えるだけで十分だと思っている。


芸術作品なら何をしてもいい。しかし芸術の力はすごく弱い。

ものすごい極端なことを書くと、芸術のためなら人を殺してもいい。

が、法律を逃れられるわけではない。

当然その国に準じた殺人の罪を受けるべきだ。

それくらい芸術の優先度は低いものだと思っている。


今回批判されている「平和の少女像」は芸術的観点からではなく、政治的・歴史的観点から批判されている。

もし僕がこの中止を妥当だと思えるとすれば、それは芸術的観点から批判されたときだけだ。


先ほど「芸術の優先度は低い」と書いた。

であるならば政治的・歴史的観点から中止になるのは妥当だと思われるかもしれない。

しかし芸術作品はメディアとしては非常に弱く、それが展示されているからといって、ある思想を受け入れることでもなければ何かに賛同することを表明することでもない。

ただ、そこにあるだけなんだ。

そこにあるだけで誰かを思想的に扇動することができるとすれば、それは芸術的な問題ではなく別の分野の問題である。

作品そのものの芸術性には何も罪はないのだから、展示を中止することは何の意味もないことである。

何も意味はないのだから展示は続けて問題ないし、中止にする必要もない。


最後に吉本隆明著「マス・イメージ論」の78Pより文章を引用して終わる。


「作品の生まなましい存在感だと信じられたものが、じつは事実の生まなましさだという錯覚が表出の内部で成り立てば成り立つほど、現実倫理の主張は強力に感じられる。そういう逆説すら成り立つようになる。わたしたちはこのとき世界の壁につきあたっている。その壁こそが重大な倫理の壁なのだ。この壁がつき崩されれば人間性についてのあらゆる神話と神学と迷信と嘘は崩壊してしまう。この壁は理念と現実とが逆立ちしてしまう境界であり、世界(という概念)を把握するばあいに不可避的にみえてくる差異線である。わたしたちはどんなにかこの壁をつき崩し、つき抜けて向う側の世界へでようとしただろう。だがそれに触れ、説きつくすことの煩わしさをたえる忍耐力をもたずに、そこから空しくひき返すということをいままで繰返してきた。」

芸術の力は実に弱く「そこから空しくひき返すということ」を今回もまた繰り返している。


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