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科白を噛むと嬉しくなる

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 6 日前
  • 読了時間: 6分

更新日:5 日前

「『リオ・ロボ』の中で女の子が台詞をとちりながら喋った時、いいなあと思った。というのも普通、人はそういう風に話すものだし、私も変えようとは思わない。」 ハワード・ホークス

 小学校6年生のとき、文化芸術鑑賞のプログラムで劇団四季の演劇を観ることになった。そのときのことをよく覚えている。なぜ覚えているのかというと、1つはかなり高倍率の抽選をくぐり抜けたということを先生から聞かされていたから。もう1つは観劇中に起きたちょっとした出来事による。

 ティモンとプンバ的な動物2匹によるかけあいのシーン。俳優たちは「ライオンキング」みたいに俳優の体よりも大きい、動物の骨格を模した衣装を着ていた。そこで、一瞬、片方の俳優さんが科白をトチッた。その瞬間、小学生で満席の神奈川県民ホールはざわめいた。会場方々からの「あ、噛んだ」という声で。

 科白を噛むというのは一つの禁忌のように避けるべきものだという、信仰にも似たなにかがある。テレビでやっているNG大賞では人気俳優が科白を噛んで、その瞬間「あ〜ごめんなさい」なんて言っていたずらな笑顔になっているところがよく映る。僕は噛むことはそんなに忌み嫌われることではないと思う。むしろ自分の映画の中で誰かが科白を噛むと嬉しくなってしまう。

 拙作『上飯田の話』の撮影中も言葉が言い淀むのを聞いてはニヤニヤしてしまった。映画監督の杉田協士さんからこのことを指摘されたとき、嬉しくなってしまった。


 なぜ劇団四季や、ドラマや、普通の映画に出てくるような人たちは科白を噛まないのか。あるいは噛んではいけないのか。それはその瞬間に私と、映画の中で描かれる世界(フィクション)との信頼関係が揺らぐからだろう。その瞬間に役ではなくその俳優自身が顔を覗かせるのだ。私と映画の関係に現実が入り込んだ三角関係になる。

 僕の体験した劇団四季を例にする。そのミュージカルに出てきていた動物は、普通に見れば本物の動物だなんて思わない。明らかに人間が操作していたし、人間がその動物のフリをしていることもわかっていた。けれど僕たちはその人間を一旦無視して、作品の描く世界にネタとしてノっていた。そこで科白を噛んでしまうと、こちらもネタとして仮初にも信じていた世界の梯子を外されてしまったような気持ちになる。演じる俳優その人が出てくる。私とフィクション、私と現実、この関係が再検討される。あのときの小学生たちのざわめきは、この突き放しへのリアクションだった。

 先日もとあるお笑いライブに行ったときのこと。漫才を見ていたら、いわゆるコント漫才が始まった。ツッコミの男性が合コンに行くから、ボケの女性(体が大きい)が相手役を演じるという。女性は飲み物もちゃんこスープを注文し、王様ゲームの内容も力士の稽古のようなことを言う。その女性の身体的特徴を使ったボケ。全部うまくいって最後、オチは「芸人辞めて力士目指す!」「力士もそんなあまくねぇよ!」というやりとりだった。そしてその「力士もそんなあまくねぇよ!」を、噛んでしまった…。ボケ側の芸人も「おいおまえ〜!」と噛んだことを笑いながらツッコむ。そのことに笑う観客。最悪の空気である。せっかく構築できていた舞台上の設定、”合コンに行く人”と”待ち受ける体が大きい女性”だけではなく、”ボケ”と”ツッコミ”という設定すらも崩れ去って、生身の人間が露呈されてしまった。観客が信じるべきフィクションは二重に裏切られる。

 舞台は怖い。


 その点、映画はNGにしてしまえばいいのだから見る方も気が楽だ。寅さんが啖呵を噛んでしまって渥美清が現れてしまえば、キャメラを止めて渥美清が謝り、もう一度やればいい。観客とフィクションの信頼関係は保たれる。…のだが、僕は冒頭に書いたように噛んだところを見るのが好きだ。

 それはなにも「フィクションを暴いて観客に映画を見ているという現実を意識させる」というメタな話をしたいのではない。ハナからフィクションを作り上げようなんていう野心もない。たとい俳優が科白を噛んでもその世界との信頼関係が揺らがないような映画と世界の信頼関係を作りたい。そういう気持ちがある。理由は簡単で、冒頭に引用したハワード・ホークスの言葉のとおり、普通人はよく言葉を噛むから。僕なんか滑舌が良くないからよく噛む。けどそういう日常の”ノイズ”は映画ではNG、失敗だとされてきた。なんだか滑舌の悪い現実の僕の人生までNGと判断されたような、そんな疎外感を感じる。映画はどこか言葉を噛まない人たちのみが楽しめる高貴なものに見えてくる。

 「フランスにおける世界最初の映画興行で、動く映像をまのあたりにした観客たちがなによりも驚いたのは、背景で風に揺れる葉叢だったという。」(三浦哲哉)撮影者が映したいと思った光景に対して、明らかなノイズとして現れた葉叢。映画はそんな”起きてしまった現実”を受け止めてきた歴史がある。僕はNGとして当たり前に無視される、そんな現実をなんとか拾ってやりたいと密かに思っている。そして俳優が噛んだ瞬間というのは、この現実を救える瞬間が現れた、その一つだと思っている。

 もし本当にうまくいけば、科白を噛もうが何しようが、観客と映画と現実のバランスは崩れないはずだ。現実のノイズはそのまま映画になるはずだ。無視されてきたこの現実が救われるかもしれない。そんな瞬間が現れるときだからこそ、僕は映画内で人が噛むとつい喜んで、そしてついOKにしてしまうのです。


 と、いうことでここで唐突にそんなノイジーな映画の宣伝をします。

 「ndjc: 若手映画作家育成プロジェクト」という企画に拾っていただき、『あて所に尋ねあたりません』という短編映画を監督しました。この映画の中では出演している俳優達が噛みまくっています。身体の動きだってノイジーです。通常の映画では考えられないくらいに現実のノイズでかまびすしい、そんな映画だと僕は思っています。見てやってください。

 4月18日(金)から1週間、恵比寿ガーデンシネマで上映されます。何日か僕も舞台挨拶へ伺う予定です。



※追伸


 以前エッセイのテーマ募集フォームからこんな質問をいただきました。

 「たかはし監督の映画から永井玲衣の哲学エッセイ「アイスコーヒーを割箸でかき混ぜる。映画だったらカットされているな」みたいに取るに足らないものの尊さを感じます。それをあえて映画にするのはなぜですか?」


 結構真剣に考えて書いていたのですが、全部削除しちゃいました。この記事で返答とさせてください。すみません。ただ僕が監督した映画を見てくださったこと、そして質問を送っていただいたことには大変感謝しています。ありがとうございます。またなにか送ってください。

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