異質な自然さ
- Sota Takahashi
- 2024年6月19日
- 読了時間: 3分
『移動する記憶装置展』の準備段階で地元の人達に出演をお願いしたいという話をスタッフとしていたとき、なぜ俳優ではなく実際にそこ(上飯田町)にいる人たちに出てほしいのかという話になった。「その方が自然な感じが出るからですか?」と聞かれて、うまく言葉にできなかった僕は「…うん(まあ、そういうことでもないんだけど…)。」という曖昧な言葉を残して早々に話すことを諦めてしまった。
自然な感じかぁ…。どうやら僕はそういう自然主義的な演出を好む人だと思われている。
「けどなぁ…」という気持ちにもなる。『移動する記憶装置展』がそんなに自然主義な映画だとは思わない。冒頭、画面中央で廣田朋菜さんが建物の屋上でバットを振っていて、その周りを影山祐子さんがグルグル回っているショットから始まる。はたしてこれが自然なのだろうか。彼女達は毎日このことをしているのだろうか。全く自信がない。彼女達が演じていた「スミレ」や「麻子(まこ)」という役にとって自然だったのだろうか。例えば『北の国から』シリーズのように登場人物それぞれの履歴書を書いて、こういう人物なのだという造形をしていったわけではない。もし書いていたのなら自然主義だとも思えるかもしれないが、書いていない。もっと何か、別の動機に突き動かされていた。
『上飯田の話』にしても『移動する記憶装置展』にしても、僕が思っていたのは、映画を撮るということを口実にある体験ができればいいと思っていた。撮影している僕達スタッフは、否が応でも(というか僕がロケ地を上飯田に設定したせいなのだけど)毎日上飯田に行く。そのことでみんなが上飯田と関わりを持っていくという状況を作りたかった。なんでそんなことを思ったのかというと『ここにいることの記憶』(川部良太監督)に対する憧れがあったからだった。
『ここにいることの記憶』という映画は、ある架空の「カワベ・リョウタ失踪事件」という嘘(フィクション?)があり、その事件の証言を集めていくということを”口実”にロケ地となる色々な団地の人たちと関わりを持っていくという映画だ。映画は段々とカワベリョウタくんの失踪とは全く関係のない団地の中にある町中華の店主をインタヴューしたり、たまたま通りがかった子供達を映す。フィクションを撮るということはどうでもよくて、それによって映画を作る人たちと町の人たちとが関係を持っていくということが主眼となっていく映画だ。そこには「町の人たちの自然な反応」を取りたいという意思はない。むしろ映るのはなんだかいつもと違う撮影隊の人達にドギマギしたり、変に緊張している人達だ。カメラがあることを隠そうとはしない。
僕が撮りたかったのはそうした体験としての映画だった。撮影クルーがあたかもいないかのように演じることが「自然な演技」だとするなら、それは「異質な自然さ」だ。僕は撮影クルーがいることもわかった上で撮られている「自然な異質さ」を撮りたかった。しかし…伝えづらい。結局のところ、やはり映画を見ることは一つの体験だ。この「自然な異質さ」というのは体験しないことには伝わらない。伝えると同時に伝わることによってでしかわからないだろう。
そんなことはわかっていたとしても、「たかはしさんは自然な演技を撮りたい」と思われ続けるのも…なかなかつらい。取り急ぎは、この記事を読んでいる方にだけも、僕は決して自然な演技を求めている人ではないということをお知らせしてこの記事は終わります。
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