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年をとったなぁ

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2024年9月28日
  • 読了時間: 4分

「おれも年をとったなぁ」と思うことが多くなってきた。とてもシンプルにその実感を説明すると、自分を自分で否定することが少なくなってきた。


 学生の頃は僕はなんだか常に自分を否定していた気がする。その頃フォローしていた批評家の意見こそが”良い映画”の基準であり、その人の批評を読んでその感性を自分の中にインストールすることこそ映画を学ぶということのように感じていた。その人が評価するハリウッド黄金期の映画を見て「これが絶対的におもしろいのであって、おもしろがれない自分が間違っているのだ」と自分の意見を殺して見ていた。必死に画面に固執し、そこに何が映っているのかをひたすら追いかけた。そしてある程度、その感性は身についてきたような気がする。つまらない映画もたくさん見た。そしてその映画の批評を読んで、やっぱりこの人もつまらないと言っているぞと安心した。よしよし、おれの頭は映画脳になってきたぞと。映画を見ることを僕はこうやって鍛えていった。それは一切間違ったことではないと思っている。そのときに鍛えた見方でどれほど豊かな映画体験ができるようになったか。古典映画と現代映画を分け隔てなく見られているのは、あのとき必死に身につけようと思った価値観のおかげだ。


 しかし三十代に入ってからだろうか、だんだんとオルタナティヴな見方というか、映画の見方はそれだけじゃないんだよなということがわかってきた。「わかってきた」ということが正しいのか、つまり、今まで殺してきた”自分の感性”にもう一度向き合えるようになってきたと言った方が正しいかもしれない。あいかわらずつまらない映画はつまらないと思っているが、今までの評価基準だとおもしろくないと言わねばならない映画にも、それはそれとして「おもしれーじゃん」と思えるようになってきた。


 とはいえ若い頃に頑張って背伸びして、わかっているフリをして、必死にしがみつこうと思っていた価値観は、やはり今でも身につけたいと思っている。けど、それを完全に身につけることは無理だよなということもわかってきた。それに、映画を見ることだけでなく作ることも、昔よりかは真剣にやるようになってきて、見方も変わってきたのかもしれない。


 なんで急にそんなことを思ったのかというと、僕よりもずっと若い友人が、とある映画について「蓮實さんがコメントしていたから見にいったのだけど、そんなにおもしろくなかった」と言っていたのを聞いてビックリしてしまったのだ。僕が大学時代にフォローしていた批評家、というのは実は蓮實重彥ではないのだけれど、が褒めていたら、おれだったら絶対に褒めている。というか自分がどう思うかなんてどうでもよくて、おもしろいと思わなければならないと思ったはずだ。

 けど、今は僕のその若い友人のような考え方の時代なのかもしれない。人は人、私は私であり、私は大事だという考え方が。


 そういえばいつ頃からか、SNSには「そのままのあなたが正しい」というような価値観が増えてきた気がする。そのままのあなたが美しい、自分らしく生きることが美しい、無理して誰かに合わせることはない…その言葉に救われることもあるかもしれないが、それは現在虐げられている立場の人が卑下しすぎることを防ぐための言葉だ。僕もなかなかのマイナス思考なのでこうした言葉に甘えてしまう。ただ、それは絶対の価値ではない。ときには自分の価値観をペンチで曲げて、誰かの価値観に縋って生きることもまた糧となる。もちろん、それは誰かに無理矢理されることではなく、あくまで自分の選択としてすることだ。


 そうして自分の価値観をぶっ潰して誰かに傾倒していたときに初めて、突然変異のように現れる誰かの作品に狼狽えることができる。今まで持っていたはずの言葉が無効化されるような体験に襲われることがある。自分が全身で信じていたはずの価値観が、揺らいでしまうことがある。言葉の無力を味わうことがある。

 自ら信じてきたものが全く無価値であったことの絶望。誰がしかになれるはずであった自分は誰にもなれないのだという諦念。


 すっかりそうした絶望、諦念から遠ざかってしまった気がする。昔衝撃的だった作品を見てはn度目の懐かしさを携えて古びた絶望と諦念を持ってくるばかり。自らの存在が危ぶまれる程の体験は遠のいてしまった気がする。それはおそらくいろんな考え方があるよねということが、言葉で言うだけでなく、体感として身にしみてきたのかもしれない。唯一絶対に思えた考え方が、相対化されてきたのかもしれない。それが年をとるということなのだろう。僕も年をとったのだ。風のように軽やかに。そうして感性は錆びていくのだろうか。


 圧倒的な映画体験時に味わうのは絶望と諦念だけではない。その後のさっぱりとした希望もまた、ある。そこに救われる。絶望的なまでに自分の無力感を味あわせる映画は、その作品のうちにまた希望をも見せてくれるのだ。次の記事では若い頃に圧倒的な映画体験として僕の前に現れた作品について書こうと思う。川部良太監督『ここにいることの記憶』について。

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