歌詞のある歌が好き
- Sota Takahashi
- 2020年10月5日
- 読了時間: 3分
多くの方がそうであるように僕も思春期にブルーハーツにシビれた1人である。中学1年の頃に生まれたてのYouTubeで『Linda Linda』(当時はまだ日本の歌であろうとも英語表記ではないと検索に引っかからなかった)を見たときの衝撃は忘れない。
ブルーハーツにすっかり打ちのめされてしまった僕は、ブルーハーツ以降の”ああいう音楽”が滅法苦手になってしまった。誰しもが持っている鬱屈とした感情を割とストレートな言葉で恥ずかしげもなく歌う感じ。「ロックンロールスターになりてぇ」なら「ブルーハーツのマネすりゃいいんだろ」と『平成のブルース』で皮肉ったように、応援歌と呼ばれるようなものは彼らの焼き増しに見えてしまった。そこで僕はブルーハーツ以降の音楽を追いかけるのを止めて、ヒロトとマーシーが好きだったバンドを聞くようになった。モッズと呼ばれる音楽がそれだった。
これが衝撃的だった。そのときの僕がすごく感銘を受けたのは『Doo Wah Diddy Diddy』『I'm Henery the Eighth, I Am』といった曲。つまり歌詞に大した意味はなく、何か楽しいメロディーに適宜歌詞があればいいという音楽だった。そしてそれが音楽としてすごく正しいように思えた。歌詞が聞きたいなら歌詞を読めばいいのであってそれは音楽を感じるということとは別の次元ではないか。であるなら音楽を音楽として楽しもうとしている方が正しいのではないか。
「けど壮太くんは歌詞のある歌が好きだよね」とガールフレンドから言われた。インストゥメンタルの音楽はあまり好まなかった。やっぱり歌詞がなければいけない。なんでだろうか。ぼんやり話していたらなにやら答えめいたことが出てきた。僕は歌の歌詞からある”葛藤”を感じていたのではないか。
声を発するということは必然的に何か意味が伝わってしまう。「あ」の一言だろうとも口に出した以上は何か意味を纏ってしまう。しかし音楽とは意味ではない。誰しもが聞けばわかる、あのブギウギ的な何かだ。言葉は音楽になりたいのだが、人は言葉が音楽になることを阻止して意味を見出してしまう。にもかかわらず言葉は自らが自動的に持つその意味をはぎ取ろうと苦心している。そこで言葉は徹底して意味のある記号を発し、意味のわからない地点まで行けば音楽になれるかもしれない。その戦いの過程が、大して意味のない歌詞に現れていると、勝手に感じたのだ。本当のところは知らない。映画『さらば青春の光』を見ていると単純に女の子とイチャイチャしたかっただけのようにも思える。きっと僕自身の関心ごととして、そうした意味からの逃走についてずっと思っているところがあるから、そう解釈したのだろう。しかし僕が大層な意味を感情込めて歌ったタイプの曲は見ていられないくらい苦手だということは本当だ。
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