日常は、過剰なのです。
- Sota Takahashi
- 2024年11月17日
- 読了時間: 7分
更新日:2月9日
実はエッセイのテーマをこっそりと募集しているのですが、先日こんな投稿がありました。
日本の商業インディーズ映画問わず最近の流行りか主流なのか分かりませんが、自然体で喋る・日常のように話すみたいな演技・構成・流れの作品が多い気がしますがあれなんですかね?
一応僕もまたその流れの中に位置付けられるような映画を作っています。なので、この流行りがいったいなんなのかについて書くよりも、どうして僕はそうした映画を作るようになったのかについて書くことから始めます。
まずは大前提として、映画を作るというのは、いまの世界が正しくない、うまくいっていないという問題意識無しには作られません。ありとあらゆる映画を作る人たちや、映画そのものが何がしかの問題意識を抱えています。僕自身はというと、僕の周りにいるような人たちが映画やドラマの画面に映らないことに、つまりは映画には映画のリアリティがあるということに、大きな違和感を持っていました。僕は僕のじいさんや、知り合いの子供達、大学の同級生達の、訳のわからない会話の方が、作られた科白よりもはるかにくだらなくておもしろく、また美しさも感じました。周りを見渡してそこにあるのはこうした世界なのになんで映画の中に現れないのか。僕にとっての世界に対する問題意識というのは、まずは「映画のリアリティ」と思われていることへの、なんか違うんだよなぁという違和感から始まりました。
そんなときに自然体で話す、つまりは僕たちの言葉を話す表現があることを知りました。チェルフィッチュの『3月の五日間』です。驚いた。とにかく驚いた。地元の友達と飲み屋で話しているようなとりとめのない内容がダラダラと続いて、しかしそれだけでなく、話している内容、人称が横滑りしていく。僕たちの言葉がそのまま表現になりえることを知りました。
そのときに感じた驚きは、そのままチェルフィッチュ主宰の岡田利規さんが著書で書いていました。
日常の身体を舞台に上げるだけでは、演劇固有のリアリティともいうべき、過剰さを備えた身体の提示とはならないという批判が、一概に「静かな演劇」とくくられたものに対して、何となく向けられていて、対して、そこで過剰と言われているものはそもそもリアリティを失効しており、そのようなものを提示してもはや興ざめで何も生まれない、という考えもまたあって、両者が平行線を辿ったままという状態がずっと続いている、というような、最近の日本の小劇場演劇の「歴史」についてのおおざっぱな認識を、僕は持っています。(中略)
でも、ふたつの立場が必ずしも対立しなければならないものだとは、僕は思っていません。なぜならこれは、日常は過剰ではないという前提の上に成立した対立であるからです。そして日常は、過剰なのです。(『遡行』P208、『ユリイカ』2005年7月号所収)
もちろん僕の映画はチェルフィッチュ程の達成をしていないことなど重々わかっています。けれど僕は書かれている内容にすごく同意できました。「演劇」を「映画」に、「小劇場」を「ミニシアター」にすると、とても納得ができたのです。特に「日常は、過剰なのです」という言葉に膝を打ちました。たしかにそうだ!僕がなんで映らないのだろうと思っていた日常は、過剰な、ノイジーな日常でした。ここから僕は日常系への興味を持ち始めます。映画らしいと思われている美しい光がなんだ。美しい科白がなんだ。そんなことが本当に起きている場面なんて見たことないぞと反発したくなる気持ちもありました。
ただ、かといって日常の身体を撮っている映画もまた大して映画を見る興奮を味わうことがないということもわかってきます。日常を撮っているといいつつも、過剰さを抑圧されて、物語に従属されていく”日常”を見ては「これじゃねぇんだよなぁ」という気持ちにもなる。
僕は両者に対してもっとよく日常を、現実を見ろと言ってやりたくなる。見てみると過剰なまでに映画的瞬間が溢れているぞと。だったら僕は現実に行われている言葉の意味のなさ、くだらない会話を見つめようじゃないか。過剰な日常を信じよう。そう思ったのです。
例えば『パパの腰は重い』とか『上飯田の話』を撮るモチベーションの一つは、この過剰な日常を撮りたいという気持ちに突き動かされていたのかもしれません。
ところでこの日常と演劇(映画)の対立は何も今の我々だけが持っている共通認識ではありません。こうした問題提起は時代に関わらず行われてきたようです。諏訪敦彦の言葉をみてみましょう。
「現実はあんなもんじゃない。全然リアルではない……大体、なんで夜のシーンがあんなに明るいんだよ、照明バンバン当てちゃって、暗いところは真っ暗でいいんだよ……拳銃の扱いも嘘臭くて見ていられない。『ドキューン』ってあんな効果音みたいな音しないっつうの……銃で撃たれてあんな派手なアクションで人が死ぬかよ……血糊の色もあんな赤じゃない……大体、日本の俳優の演技がクサくてたまんないよ、歌舞伎じゃないんだから眉毛つり上げて芝居すんじゃねぇよ……」(『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために』P352、『masters of TAKESHI』1999年所収)
1979年の終わり頃に山本政志を中心とするスタッフ達の会話もまた岡田利規さんが指摘するような「映画のリアリティ」と「日常の身体」の対立構造があります。
おそらく、今回のエッセイのテーマの投稿者が感じている「自然体で喋る・日常のように話すみたいな演技・構成・流れの作品が多い気がします」という時評もまた、歴史を遡ればn度目の出来事なのだと思います。そうした流行が繰り返し起きているのだとしたら、そこには今は日常の過剰さを低く見積もる「映画のリアリティ」信仰者の存在が幅を利かせている時代だということなのかもしれません。
また文面からこの投稿者が自然体で話す演技・構成・流れに対して批判的な様子もうかがえます。その気持ちもわかるような気がします。おそらくなのですが、それは「日常の身体」信仰者が、本来出すべきはずの日常の過剰さを抑圧して「なんかいい」と劣化コピーをしているからではないでしょうか。真に自然体な身体が映るとき、そこに映る日常は過剰なものとなるはずです。一人の人間(監督)が一本の映画として作り上げるにしては全く不可能な、過剰な日常になるはずなのです。ひょっとしたら過剰な日常が映るとき、その作者という存在そのものも危ぶまれることになるかもしれません。よく映画の作者=監督と思われていますが、そんな考え方は過激な日常の前に霧散するかもしれません。僕はそれでいいとも思っています。作家になりたくて作っているわけではないし。
さてここまで、僕がなんで自然体で話すような映画を作ってきたのかということと、この潮流自体は別に今に始まったことではないということを書きました。僕は、いわゆる「日常系」の映画を作っている側の人間として、今のこの自然体を映そうとする風潮を否定する気にはなれません。むしろ希望すら抱いている。ひょっとしたらこの「過剰な日常」というのを手掛かりにして、黒沢清がいっていたあの「映画の原理と世界の原理との壮絶な覇権闘争」(「映像のカリスマ・増補改訂版」P288)を切り抜けることができるのかもしれないからです。映画の原理も世界の原理も、過剰な日常の存在を忘れていないだろうか。もしそうなら、この風潮は一時的な現象を超えて、映画に強かな打撃を与えるはずです。
ただ、日常を映すことはとても難しいということも思っています。迂闊に手を出してはいけない。なぜなら過剰な日常を映そうとすれば作品としてまとまりがなくなっていくリスクがあるから。なんならジャンル映画を作るように日常を映すことは難しいかもしれません。
「あれなんですかね?」という問いに答えていませんでした。なんなんでしょう?単なる流行りならどうせすぐになくなるので静観していればいいと思います。だけど僕はこっそりそこに可能性を感じています。覇権闘争をオジャンにしちゃう強烈な可能性を。
Hozzászólások