批評:ブロンコ・ビリー 西部劇であることの必要性について
- Sota Takahashi
- 2020年9月20日
- 読了時間: 5分
下記記事は2015年2月18日にこちらで公開したもののBUです。
どの映画にも当然のように映っていながら、まるで映っていないかのように扱われているモノがある。映画だけではない。私たちの暮らしにはそんなものが山のようにある。しかしそのあまりにも当然すぎて見逃していた細部が、ふとしたときに映画の中にいる者や物を動かしたとき、忘れ去られていたその存在を急に主張したときは感動的だ。
だからといって「ブロンコ・ビリー」の主人公であるクリント・イーストウッドがかつて存在した西部劇のカウボーイを今更ながら演じている姿を見て、「西部劇」やそれを構成する「テンガロンハット」「リボルバー式の銃」「インディアン」といった要素がその忘れ去られている細部であるということを主張したいのではない。映画を見ることは「西部劇」の歴史や意義や背景といった知識のある者のみに許された行為ではなく、視力ある者なら誰しもに許された行為のはずだ。
映画の冒頭で映される土の上に建つテントの近くを走る車が、乾いた大地故に砂塵を舞い上げながら走る。
そうか、この映画ではある程度の速さで移動をすると砂塵が舞うのだ。大地を走るスピードがここで現れる。そしてこの砂塵は”人気”につながっていることを私たちは知る。
この映画ではなぜ、クリント・イーストウッドに一番人気があるのだろうか。いつもニコニコ笑っているスキャットマン・クローザースや投げ縄をするサム・ボトムズや他の出演者に子供は集まらず、子供たちが群がるのはブロンコ・ビリーの赤い車なのはなぜか。それは彼がこの一座の中で一人だけ砂の上を縦横無尽に走り回ることが許されているからに他ならない。子供たちにショーへの招待券を配り終えたイーストウッドが車に乗って走り去るとき、私たちは子供たちが全員自転車に乗ってやってきたのだと知る。彼が一番早く移動できる。だから人気があるのだ。
火事によって金の無くなった一座が列車強盗を行うシーンでも、派手に砂塵を舞い上げる一座と全く舞い上げない列車という対比が描かれるが、その列車の中の子供はカウボーイの格好をしているではないか。
都会のシーンに砂塵は上がらない。地面がアスファルト舗装さていることもその一つの理由だが、一座が途中立ち寄る各町の地面は道路以外にもアスファルト舗装されているのが普通だ。ではこの映画における”都会”とは。
それは、砂塵など上がるわけがない地表数十メートルに設置されている足場のことだ。地面からの”高さ”という問題がここには現れている。人はお金持ちになればなるほど高いところへ移動する。そしてその高さを前に、地表にいる人間は太刀打ちできない。列車強盗がなぜ失敗したのかといえば、この「地表からの高さ=財力=強さ」の図式を守り、誇示しただけのことだ。逆に留置場が地下に設置されていることも同様。
映画と物語は切り離せない。例えば秘密を知れば密告を期待したり、男女がいれば恋愛を期待したりすることと同様に、映画に高低差が映れば、そこには”落下”という、運動に対する期待が生まれる。地面との高低差がそのまま財力や強さにつながるという関係を示した「ブロンコ・ビリー」なら、その期待は持たれて当然である。
そしてその期待は、様々なモノがこの映画の中で落ちていることを際立たせる。出来の悪いアシスタントは落馬し、胸ポケットからお札は落ち、銀行に来た男の子は貯金箱と共に突き落とされ、着火した花火も落ち、拳銃は投げ捨てられる。
この映画は物語の様々な地点でモノが落下する姿を映し、そしてその度に我々は、落下先の地面を見ることになる。
時に砂塵を舞わせ、財力や力を示し、女性を受け止め、貯金箱を壊し、藁を燃やすこととなる地面。そんな様々な表情を見せてくれる中で、最後のシーンのソンドラ・ロックの登場は感動的だ。
映画冒頭、ソンドラ・ロックが歩く場所は舗装されている。だから彼女はちゃんと歩く事が出来る。そんな彼女は硬貨を借りるために一座のいる地面に移動した途端、非常に歩きづらそうな足取りを見せる。彼女は映画が開始した当初から明らかに「よそ者」の振る舞いをしている。砂塵を上げることの意味も彼女には通じず、列車強盗も最後まで反対している。彼女は高層階(=お金持ち=力のある)に住む存在なのだ。一座の地面を舞台とした生活とは全く違う。そんな彼女を見ていると私たちは落下への期待を感じずにはいられない。彼女はなんとかして落下せねばならない。それが映画の掟だ。
その期待に応えたのが、最後の登場である。
軽い足取りで登場した彼女は確かに地面に足をつけている。かつて落下に失敗した人びととは対照的に彼女は綺麗に立ってみせる。さながら新体操選手のように、彼女のポーズは着地の成功を物語っている。クリント・イーストウッドと共に乗馬する彼女の姿はかつてのようなよそ者のそれではない。
なぜ西部劇なのか。失敗に終わる列車強盗に映画史的な解釈を読み込むことができるかもしれない。しかしそんな解釈は映画をただ難しく厄介なものに仕立て上げるだけだ。そうではなくもっと単純に、西部劇とはとことんむき出しの地面を必要としているものだからだ。地面の起こす様々な表情を画面に映すことができるからだ。イーストウッドはその事実を我々に見せてくれる。
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