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批評:「訪問、あるいは記憶、そして告白」を オープニング上映することについて

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2020年9月20日
  • 読了時間: 4分

下記記事は2015年10月14日こちらで公開したもののBUです。

 

「訪問、あるいは記憶、そして告白」を

オープニング上映することについて

たかはしそうた


何の気なしに歩いていると、たまたま通った道のそばの公共施設で映画を上映するという。せっかくだからと中に入り、どこの国のいつの時代のものかもわからない映画を見て、偶然新たな現実への眼差しを得る。そんな稀有な体験ができる山形国際ドキュメンタリー映画祭のオープニング作品は、ポルトガルで1982年に作られているにもかかわらず、もしかしたらこの映画祭のために作られたのではないかと思えてしまう。


マノエル・ド・オリヴェイラ監督の「訪問、あるいは記憶、そして告白」はオリヴェイラ監督自身を主人公にした、とある家に流れる複数の時間の物語だ。その家とは、オリヴェイラ自身が40年間住んでいたが映画製作の借金返済のために手放したポルトにある家のことを指す。

映画の冒頭、画面には門が映され、1つ目の時間がベートーヴェンの音楽とともに始まる。とある男女(テレーザ・マドルーガ、ディオゴ・ドリア)の時間だ。この男女の姿はフレーム内ではほとんど確認することができず、2人の話し声だけがフレーム外の音として響いてくる。その話によれば、どうやらこの男女はこの家の主人に用があり訪問してきたらしい。しかし家には誰もいない。玄関の前まで来たとき、たまたま開いたドアに誘われて2人は家の中に入ってゆく。そして2人は家の中を徘徊しながらそれぞれがこの家についての感想を話し、上の階へと移動していく。

男女が3階へと移動してから始まるのが、オリヴェイラ自身がフレームの中に出てきて、かつて住んでいたころの思い出をカメラに向かって語る、2つ目の時間だ。窓際でオリヴェイラがタイプライターをたたくカットから始まるこの時間は、先ほどの男女の時間と微妙な関わりを持つ。女性はオリヴェイラの出すタイプライターの音を微かに聞くのだが、男性には聞こえないことから、どうやらこの映画の中のオリヴェイラは幽霊のような存在らしい。オリヴェイラが自身の死後にこの映画を発表するよう言づけたことをふまえると、なおさらそう思える。

オリヴェイラが自室にあるフィルム映写機を回すと始まるのが3つ目の時間だ。映写機がフィルムを送るときのカラカラとした音が響きながら、映画はオリヴェイラが幼少だったとき、この家や周辺地域を映したフィルムの映像が映し出される。


この映画の時間について整理してみると、

1つ目が男女の話し声が聞こえる現在の時間

2つ目が現在ではあるが過去の主人の姿が映る時間

3つ目が主人の過去の時間

であることがわかる。

この3つの時間によって作られる物語が、山形国際ドキュメンタリー映画祭のオープニングにふさわしいと感じられるのは、劇的なラストによるものだ。


1つ目と3つ目、現在と過去の時間には、固有の”オフの音”がある。ベートーヴェンの音楽と映写機の音だ。

映画のラストカットは、全てのフィルムが送られた後の白い、ただ映写機からの光がフィルムを透過し、直接スクリーンに当たっている画面が映る。そしてそこに、カラカラとした映写機の音が響き、さらにベートーヴェンの音楽がかぶさるのだが、驚くのはこの2つの音のリズムがほぼ同じことである。それによってまるで1曲の音楽を聴いているかのような、2曲の融合がなされる。そこから私たちが読み取れるのは、とある家を訪れている男女の時間と、かつて同じ場所で過ごされた時間が合わさっていく、現在と過去の融合だけではない。真っ白な画面は私たちが今、スクリーンの前に座り、映画を見ているという現在を強烈に印象付ける。その瞬間、映画内で語られるオリヴェイラの物語はスクリーンを越えて私たちの時間にも侵入してくる。私たちはスクリーンを見ている今、ここにいる、この時間が、ポルトにあるとある家に亡霊のように現れるオリヴェイラのような、かつて、ここにいた、あの時間の積み重ねであること、そして今この時間がどんどんと過去になっていくなかで、私たちそれぞれが、私たちに記憶を語りかけてきたオリヴェイラになってゆくことを知る。


カメラは過去の光を記録する装置だ。この映画祭で私たちは多くの映画、過去の断片を見るだろう。そんな見る体験の中で、現実への、今まで見てきた映画への、新たな眼差しを得ることになるだろう。この映画の最後に映った映写機からの光は、私たちに新たな”未完の映画史”の編纂を告げていたように思われた。



※この文章は山形国際ドキュメンタリー映画祭開催中に書いたものです。

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