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悲劇と喜劇の時間について

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2022年12月1日
  • 読了時間: 2分

 サッカーの喜劇はサスペンスにも似た緊張状態の持続のことであり、悲劇はその緊張がとけた一瞬の出来事である。11月23日の日本対ドイツ戦を見て思ったのはこうした喜劇と悲劇の時間の差についてだった。


 「ドーハの悲劇」とは、あのロスタイムに起きた一瞬の出来事でしかない。あの失点の瞬間にドーハの悲劇となった。ドーハの悲劇と呼ばれる試合が、例えばただひたすら日本が失点をし続けて、誰しもが負けると思っていたとしたら、悲劇と呼ばれる程にはならずにただの敗戦になっていた。


 「ドーハの歓喜(と呼ばれるらしい)」とは、しかし対照的に一瞬のことを指すのではない。得点した瞬間が喜ばしいわけではなく、試合終了のホイッスルが吹かれた瞬間が嬉しいわけでもない。実際に見ていた側の僕からすればそれはある喜ばしい時間の持続である。「このまま勝ち越した点数で試合終了までいてくれ」と願っていた時間、ヒリヒリとした緊張感、よしんば失点してしまうのではないかと不安になる気持ちが「ドーハの歓喜」につながった。


 だから悲劇とその反対の歓喜・奇跡・喜劇といったものは常に隣り合わせになっている。ドーハの悲劇だって失点する前までは喜びに満ちていたのではなかったか。このまま終わってくれと願うこと、このサスペンスに似た宙吊り状態が喜劇的な時間だ。


 サスペンスドラマの「古畑任三郎」を見ていて殺人犯の行動を見るうちに、つい正義の側に立つ古畑ではなく、犯人に同情して「このままバレずに終わってくれ!」と願うことがある。犯人がもう観念して殺人を認めたときに悲劇的な気持ちになる。これはそっくりそのまま喜劇と悲劇の時間感覚にかかずらわう問題だ。…ということをサッカーを見ていて思った。


 もちろん、この話は見た後でそう思ったということで、見ている最中は「よっしゃああああああ!!!!」って言ってたよ。歓喜しまくってたよ。髙橋とサッカー見るとつまらなそうだなと思われるのはちょっといやなので、一応ね。


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