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太田達成監督『石がある』

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2024年9月19日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年10月9日

今、映画が生成されている。そのポロっと産み落とされた映画の瞬間を撮り逃さんとしてカメラがそこに位置している。バザン=諏訪が出す例えに「岩の映画」と「レンガの映画」がある。川の向こうに行こうとして、レンガで橋をかける(そのために設計し、施工しする人達がいる)映画の撮影行為がある一方で、そこに岩があるからヒョイヒョイと渡っていけば岩は即席的に橋になる。映画にはそうした2種類がある。『石がある』は今、橋が生成されている、そんなライブ感を味わうような映画である。画面に橋を渡る人と、川を横断している人がいるという図式だけではない。カメラは今目の前の光景を逃さんとして、しかし逃してしまう、そのブレの痕跡を隠そうとはしない。川を徒歩で渡る加納土さんと対岸にいる小川あんさんの、その両方を一つの画面に収めることができないカメラは「どっちにパンしようか」という迷いと逡巡を、そのぎこちないカメラワークで露わにする。河岸で石を拾ったり歩いたりするときに、片方を確実に撮り逃す。その瞬間に見ている私たちは戸惑う。この映画は、光の痕跡を映しているスクリーンを見ているだけのはずの観客を、そんな安全圏にいさせてはくれない。今、私が、目撃しているということの目撃者へと観客を変貌させる。この空間に私もいる。加納土さんの気味の悪さ、小川あんさんの気味の悪さ、そして観ている私の厭らしさ。この3つを不気味に同居させるプロジェクトこそ『石がある』という映画である。奇跡を見るというのは美しさを享受する行為ではない。己もリスクを背負う行為なのだ。映画を見るというのは恐ろしい行為である。一旦忘れていいはずのその恐ろしさに、私も組み込まれるとき、この映画が完成したのだということを理解する。

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