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困っていること

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2月22日
  • 読了時間: 4分

更新日:6 日前

 最近、惨めな気持ちになっていない。これは困ったことだ。

 僕は惨めさを原動力にして物語を作ってきた。『文化の日 製本前の 紙重し』という自主映画も一つの惨めな思い出を元にしているし、『上飯田の話』の2話目も妹と口論で捲し立てられたことを元にした。

 惨めな思いをすると、もちろんストレスは貯まる。あのときああ言ってやればよかっただ、こう言ってやったらギャフンと言わせられたはずだっただ、ならまだいい。ああ、おれってなんてダメなやつなんだとか、生きている意味ないな、とか思い始めたら面倒である。考えて夜も眠れない。そしてそのストレスを打ち消すために酒を飲み、強引に眠る。それがあるときから「この惨めさって映画になるかもな」と思うようになった。実はカメラで撮ったらそこそこおもしろいのでは?なんて思い始めた。チャップリンも「人生はクローズ・アップで見ると悲劇だが、ロング・ショットで見れば喜劇である」という名言を残した。この状況をヒキで見たら…どうなるだろう。そんなことを考えながら惨めな思いをしたシーンを頭の中で再生する。すると「もっとこうしたらおもしろく(より惨めに)なるんじゃないか」と考え始めることができた。

 実は拙監督作『あて所に尋ねあたりません』という短編は、仕分け倉庫でバイトしていたときに感じた惨めエピソードが元になっている。そのエピソードを、ちょうどまた惨めな思いをしていた現場中に更に脚色して脚本におこした(僕はよく惨めな思いをする)。もっと惨めにするにはどういう状況を作ろうか、そのためにはこういう伏線をはってやろう。そうやって脚本を書いていった。

 しかし最近、惨めな思いをしていない。困ってしまう。企画が浮かばないからだ。


 2月27日にndjcの合評上映会というのが開かれて、そこで『あて所に尋ねあたりません』が初上映される。その後、名刺交換会というのが開かれるそうで、プロデューサーの方々とお話しができるらしい。その際に次回作の企画を準備しておいたらいいですよ、なんて助言を受けた。今頭を悩ませながら企画を考えている。

 まったく思い浮かばない。やばい。せっかくプロデューサー達と話しができる機会なのに、これを棒にふってはもったいない。しかし最近全然惨めな思いをしていないからネタがない。みんながみんな惨めさを糧にしているはずはないのだろうが、他の方々はどうやって企画を考えているのだろう?

 大学院にいた頃に、黒沢清・諏訪敦彦両氏に「企画書はどうやって書いているのか?」という話を聞いたことがある。2人とも、企画書というのは作ったことがなく、プロデューサーが作り、監督は打診されたからやった、と返ってきた。こういう天才エピソードは聞くには楽しいが、凡才には全く役立たない。

 社会的な使命感を持って映画作りをしている人たちもいるが、僕は別にそんなものを持ち合わせてはいない。誤解されていたらマズイので書いておくけれど、味わった惨めさから生まれたストレス発散のために作っているわけでもない。ただ自分が感じた惨めさをきっかけに、発想の第一歩にしているだけだ。そして自分が感じた惨めさを元にしている限り、登場人物を惨めな目に合わせても何か自分の中で許せる。そんな状況を笑うことができる。それは一種の自虐だからだ。逆に自分に実感の伴わない惨めさを登場人物に背負わせると、どこかで自分の許せる範囲のご都合を超えて無理が出てしまう。自分でもわからないことを描こうとすると、見ている相手に届くかどうかが不安になるから、登場人物の感情を伝えるために悲しそうな顔のクローズアップなんかを入れてしまう。すると逆に見ている方はその感情を無理やり感じろと命令されているようで興醒めしてしまう、なんていうことがある。小津安二郎も「いざ悲しいという場面では、逆にロング・ショットに引いた方が、悲しさを押しつけがましいものにしなくて済む」と書いている。悲しい場面を撮ろうとするとき、僕は自虐であればロング・ショットで撮れる気がしているので、惨めさを用いて物語を作っている。


 ただ僕だっていくら企画のためとはいえ好んで惨めな思いをしたいわけではない。できれば楽しい気持ちがずっと続いていてほしい。それに惨めな状況は願って起こせるものでもない。惨めさは、頑張って何かをしたり、良かれと思って何かをしたときに、向こうからやってくるのだ。だから、待つ。果報を待つように。そうこうしているうちにあと1週間を切ってしまった。いよいよマズイぞ…。


 ちなみに『あて所に尋ねあたりません』は前述のようにもともと僕の惨めな体験を元にしていたので、惨めなラストになる予定だった。当初脚本もそうなっていた。「惨めな僕を笑ってくれよ」となるはずだった。が、あるシーンで主演の神田鯉花さんが大変楽しそうだったから「ああ、この人をなんとか良い方向に向かわせて終わりたいな」と思って急遽ラストを変えた。僕にとってはこんなふうにラストを変えたのは初めての経験だったので一つの挑戦になった。もうすぐ初上映だ。

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