出会うタイミングってのがあるよね
- Sota Takahashi
- 2024年8月15日
- 読了時間: 4分
更新日:2024年9月16日
大学院に入ってすぐの頃、実家に戻ったこともあるし、これから大学院でやりたいことと近しいだろうと思い、大好きな映画を両親に見せることにした。ジャック・タチ監督『ぼくの伯父さんの休暇』だ。僕は今でもジャック・タチに傾倒している。初めてこの映画を見たときの衝撃たるや。車が走ってくるという、ただそれだけでこんなに可笑しいなんて、これは異常事態だということをすぐに悟った。まずもってくだらない笑い。しかしそれが見ることを通じてでしか伝わりようがない体験であること。その後知る「喜劇の民主主義」とタチが呼んでいる、作り手側が「どうですかこれおもしろいでしょう」と差し出すコメディではなく、見る人が自分でおもしろい部分を発見していくスタイルに、深く感動した。これこそが自分の作りたい映画だ。そんな自分にとって大切な映画を、一つの自己紹介として見てほしく、我が家のリビングルームで流した。
映画の途中で父が「要はドリフだな」と言った。
こいつマジではっ倒してやろうかと思った。
こんなにガッカリとした言葉もなかったし、この人とは何を話しても無駄なのだということも悟った。本当に酷い言葉だ。ドリフとタチなら、もちろんタチの方が遥かに映画であるという説明もできるが、それよりも僕が心底ガッカリしたのは、僕の本当に大切にしている映画として見せたのに、くだらないものだとコケ落としたことに対して激しい怒りを感じた。これはつまり「お前のやろうとしていることは取るに足らないくだらぬおもちゃだ」と言っているようなものだ。僕は何も映画は”藝術”でとても崇高なものだと言いたいのではない。僕がどれほどの気持ちで向き合っているのかを知った上で、そんな言葉しか出てこないのはあまりにも無礼だと言いたい。この言葉には父とこの会話について対話不可能であることも含まれている。今でも思い出すと哀しくなる。
ええい、本来書きたかった内容とはズレるが、怒りに任せて書いてしまえ。僕が例えば医学の大学院で癌の研究をしていたとしたら「癌なんて治らないんだよ」と言うのだろうか。高度な数学の研究をしている人に「生活の役に立たないよ」と言うのだろうか。どの権利があって誰かの研究分野をコケにできるのか。
いや、それでも映画を好き勝手言う権利はあるし、それこそ研究するもんでもないと思っている人がいることはわかる。ただ誰かの心を貶める権利はそこに含まれない。
そんなことが数年前ありました。
それから数年が経った今、いまだに思い出しては沸々と怒りがこみ上げてくることを感じながらも、やはりこちらにもある程度考慮すべきところがあったこともわかってきた。要は映画を見て感動するというのは一つの体験であるから、出会うタイミング如何で印象は激しく左右される。こちらは人よりいかほどかは映画を見ていて、映画から希望をもらえたり、そんな映画を作ろうとして何倍もの失望を味わったりしていく中で、タチと出会えた喜びがある。それと他者から「おもしろい映画があるんだよ」と言われて望んでもいないのにタチを見るのとでは、やはり体験として雲泥の差が生まれる。
そんなことがわかってきたころに一つ思い出した。昔付き合っていたガールフレンドからいろんな作品を勧められたことがある。アニメ作品だったり、音楽だったり、映画だったり。何一つおもしろいと思えなかった。おそらくそれは彼女が「私が好きなものを見てくれ」という態度だったからで、「あなたも好きだと思うから見てくれ」という態度ではなかったからだ。まさしくジャック・タチを両親に勧める僕と一緒。僕は自分がされて嫌だったことを誰かにしてしまってもいたのだ。
だから、もう誰かに自分の価値観を押しつけるように勧めるのはやめたい。これからもタチの映画は然るべきときに出会えさえすれば、人々に感動を与え続けられる力を持っていることはわかっている。だから出会ってくれと願うだけにしておく。
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