top of page

ロケ地についての雑感

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2024年4月1日
  • 読了時間: 2分

 つい昨日、大学のはるか後輩達と上飯田に行った。そもそものきっかけはその中の1人が『上飯田の話』と『移動する記憶装置展』のロケ地に行ってみたいと言ってくれたからだった。僕が上飯田に行くときは大抵居酒屋和らくに行くので、久々に僕も案内をしつつ巡った。「ここの交差点でファーストカットを撮ったんだよ」「あのファミマの裏側で1話目のラストシーンを撮影したんだよ」「この階段に佐々木想さんと影山祐子さんが座っていたんだよ」話しながらなんて地味なロケ地巡りなのかと我ながら驚く。ファミマの裏側の白い壁で隣がささやかな墓地になっている小さな路地で、よく映画を撮ろうと思ったものだ。そんなことを思っていると撮影時に考えたことを久々に思い出した。僕はそういう、おおよそ普通映画にならないような場所であえて撮ることをしたかったのだ。


 その理由の一つは、綺麗な画面に逃げないためだった。 

 海とか、山とか、抜け(画面の奥行き)が綺麗な場所とか、映像によく出てくるような場所はその場所を撮るだけでなんだか良い映画を撮っている気分になってしまう。それはそれで大切なことだし、そうした場所が求められる現場があることも知っている。僕も別現場でロケハンに行ったときに「ここは抜けがよくないからダメだ」と言われたことがある。そのときにどこかその場所が可哀想な気がした。ここで暮らしている人もいるし、その場所が好きな人もいるだろうに、知らない外部の人からダメだと言われるなんてあまりにもひどいじゃないか。もちろんそれは”映像として”ダメだという話で、その場所自体を否定しているわけではないことはわかっている。だけど撮影当時の僕は、場所には映画になりえる場所となりえないものがあるという、この差別に妙に腹が立っていた。そんなこともあって地味な場所を選んでいた。その一方で、綺麗な場所で撮られている映画に、この小さな規模の映画が勝つためには、同じように綺麗な場所で撮影してはいけないという小賢しい戦略もあったが。


 そんな当時の僕の考えにより「上飯田シリーズ」は地味な場所で勝負をすると決めたのだった。ルックの綺麗さよりも優先すべきものがあるという映画を作ろう。夕日とか撮らない。綺麗だから。汚すぎるところも撮らない。路地裏とかゴミ捨て場とか。つまりは映えない場所の映画を撮る。そこが映えて見えたらこちらの勝ちだ。

最新記事

すべて表示
カンヌで死者の気持ちを知る

カンヌ国際映画祭にいた。そこで見た是枝さんの『箱の中の羊』は実子を亡くした夫婦の弔いの話ということになるのだろう。この映画がはたして弔うこととどこまで向き合えたかどうかというのはとりあえずさておき、この映画を見た数日前に実感した弔いに関する小さな経験について書きたい。  小泉義之著『弔いの哲学』は時々読み返したくなる本だ。冒頭に書かれているこの文章は弔うことに関するこの本の基本方針である。 「誰か

 
 
 
駄文:違いがはっきりしているものと、ないもの

下書きをしているファイルにずっとあるものを、ずっとあってもしょうがないのでアップします。なにを今更と言うようなことを書いていました。おそらくこういうことを書きたくなったということは、誰かにドキュメンタリーとフィクションの違いを尋ねられて、答えられなかったことへの腹いせなのだと思います。しかし喉元すぎて熱さ忘れた今、別にそんなこと書かなくてもいいじゃないというような気もしなくもない。ま、いいや。アッ

 
 
 
評論はどんどん書かれるべきだ

侯孝賢は語る。「創作者には、自分の映画制作を振り返って、そこに働いている原理やプロセス、とりわけその原理を語ることはできません。ですから私は、自分の映画について人が書いた評論は見ないのです。相当時間が経って、たまたまふと目にすることがあると、ああ、当時彼らはこんなふうに書いていたのか、などと思います。そしてたいていの場合、それらはまったく当たっていない。研究やら論文やらに書かれたことはほとんど的が

 
 
 

コメント


© 2020 Sota Takahashi

​st

bottom of page