ドキュメンタリーとフィクションの違いについて 20200204
- Sota Takahashi
- 2020年9月20日
- 読了時間: 8分
下記記事は2020年2月4日にこちらで公開したもののBUです。
これは「ドキュメンタリー」「フィクション」という本当にどうでもよいやりとりを続けることに嫌気がさして久しい私が、自分はこういう基準でこの2つを分けているよということを伝えるために駄文を掲載する。
これをそのままモノサシとして利用しても良いし、改変を加えても良い。
元来映画とはドキュメンタリーとフィクションの境界はなかった
映画が誕生した瞬間、映画はフィクションとドキュメンタリーの界なく存在していた。工場の出口から出てくる人たちはフィクションなのか、ドキュメンタリーなのか、そんなことをリュミエール兄弟が意識していたのだろうか。確かに「工場の出口」は同じパターンのものが3種類あり、現在の馬車が登場しないヴァージョンはリメイクであると指摘されている。ではこれはフィクションなのか?どうやら登場人物たちは本当に工場に勤めている人たちらしい。その部分ではこれはドキュメンタリーなのか?そうではなく、むしろこうした線引き自体がナンセンスなものなのだ。それがいつしか、2つに分けられるようになってきた。
どうしたらドキュメンタリー映画になるのか?
例えばスターウォーズの旧三部作は「ルーク・スカイウォーカーの話である」と言える。そういう点ではこの映画は一般にフィクション映画と思われている。しかし同時にもしあなたがマーク・ハミルのファンならば、「マーク・ハミルの話である」ともとらえることができるだろう。
また森達也が再三再四伝えているようにドキュメンタリーは嘘をつく。ドキュメンタリーの素材を組み合わせることによってフィクションの物語を組み立てることは十分に可能である。
つまり、”絶対的”なフィクション映画もドキュメンタリー映画も存在せず、あるのは”相対的”なフィクション映画とドキュメンタリー映画があるだけだとひとまず言うことができる。
判断に向けて
この2つを分離すること自体がまずあまり意味があるとは思えない作業なのだけど、それでもこの2つが別物であるかのように扱われているし、意見を求められるときもあるのだから、ここから無理矢理どういった基準で分けることができるのかについて書いていく。
ここで、これまで曖昧に書いてきた「フィクション」と「ドキュメンタリー」という言葉と合わせて「演出が有る(フィクション)」「演出が無い(ドキュメンタリー)」の2つも使っていきたい。
どのようにしてある作品は「ドキュメンタリー映画である」と言うことができるのか。それは個々の作品の制作過程で演出の有無によって相対的に決めることができるように思える。しかしその評価基準自体が相対的で恣意的なものであり、容易に反対側に揺れ動くことのできる程度のものにしかならない。なぜかというと、これは画面を見ている限りは判断がつかないものだからである。制作ノートとか関係者の証言とか、そういう資料を基に推し量るしかないのだ。この2つの差異はその程度のことでしかないということも補足したい。
ではどうやって無理矢理判断をするのか、そのために以下の5つの要素を演出の有無に照らし合わせて、それがそれぞれどちらに近しいのかということを手がかりに映画を分類してはどうだろうか。
1.物語の準備
いかなる映画にも物語がある。演出の無い物語など無いのだから、この項目は、どれほどの筋書きが撮影前に準備されていたのかで、その程度を見定めていきたい。
撮影前に脚本が準備されていて、読み合わせ等で多少の変更を加えるかもしれない、撮影前には完全な脚本が出来上がっている。これを100%演出がされている状態とする。反対に全く何も決めず、まず撮影をしてみるところから始める状態を0%演出がされている状態とする。
例えば、侯孝賢監督やホン・サンス監督は撮影当日の朝に役者脚本が渡されるという。あるいは最初と最後だけが決まっていて途中はアドリブでいこうという演出方法もある。こういう場合はどちらかと言えばフィクションだけど、ドキュメンタリー的な手法を使っているのではないか。
ドキュメンタリー映画だって、最初から何も決めずに撮られるわけではない。大枠のストーリーラインが決まっていたり、構成が決まっていたりする。ドキュメンタリー映画だけれど、フィクション的な手法を使っている。
ただ、当初予定していた割合がズレる場合もあるだろう。撮影中に事故で役者が来れなくなったとか、「ゆきゆきて、神軍」(原一男)の主演・奥崎謙三の逮捕だとか。これらはもともと60%ドキュメンタリーだったりしたものが80%ドキュメンタリーとなるだろう。
だから当初予定していた割合ではなく、完成後に改めてその割合が実際にどうだったのかを決めて測ることが必要だ。
2.人物の設定
これは「役名の有無」で大雑把には程度が測量できるだろう。
マーク・ハミル(役者名)はルーク・スカイウォーカー(役名)ではない。マークはフォースを使えないし、タトゥイーンにも住んでいない。であるから、彼は全くのフィクショナルな存在だと言える。
「阿賀に生きる」(佐藤真監督)に出てくる人達に役名はない。だからかれらはドキュメンタリーの程度の強い人達だと言えるだろう。
しかし、役名の有無によっての区分が難しい場合ももちろんある。
「ヴァンダの部屋」(ペドロ・コスタ監督)のヴァンダ・ドゥアルテには役名はないけれど、彼女は本当に演出なくキャメラの前に立っているのか。また役名はあるけれど区分が曖昧なものの例として「2/Duo」(諏訪敦彦監督)もある。
こういう場合は「その人物はその人物としてキャメラの前に立とうとしているか」を物差しに程度を測っていきたい。
3.ロケーションの性質
撮影地は映画の撮影如何に関わらずその場所としてそこにあるのか、これが判断基準となる。概ねこれは「0か100か」の問題である。
スターウォーズはもちろん本当に惑星タトゥイーンで撮影されているわけではなくチュニジアをロケ地としているのだから、これは100%演出されている。他にもスタジオでセットを組んで撮影されたもの、屋外でもそれ用のセットを組んで建てられたものは全てフィクションだと言えるだろう。また、「Cure」(黒沢清監督)のように、元々病院でない場所を病院として使用する場合もまた、フィクションとする。
反対に「阿賀に生きる」は阿賀で本当にその人達が住む家、集会場で撮られているのだから、これはドキュメンタリーだと言えるだろう。また「七月の物語」(ギヨーム・ブラック監督)の舞台は本当に学生寮の場所を学生寮として使用しているのだから、この場合もロケーションは演出がされていない。
4.台詞
何かを言うように指示されているかどうか。これが判断基準である。
マーク・ハミルの言葉は脚本に書かれているのだから、これはフィクションである(例え彼が戦機から降りたとき咄嗟に「キャリー!」と叫んだとしても、そういう意図の発言はするように支持されているのだからフィクションとする)。
ドキュメンタリー映画と分類されるものの中でインタビューが挟まれる場合もあるだろうが、これは何を答えるかを指示していない限りにおいて、演出は無しとする。仮によく問題となる、編集作業によってその言葉がつぎはぎされて意図していることと別の言葉が話されているように聞こえたとしても、それは編集の問題であり、台詞の問題ではない。
5.音
台詞とは別に「音」の項目を入れたのは、台詞以外にも映画の中には多くの音が使われているからだ。ただ、これはBGMという意味ではない。BGMが入っていたら、それはもう言い逃れなく演出が入っていると判断できるだろう。
ここで言う音とは撮影中に聞こえたり、聞こえなかったりする環境音についてである。例えばよくあるのは、救急車の音が聞こえたので撮影を中断したり、冷蔵庫の電源を撮影中だけオフにしたりする。どこかお店のBGMを撮影中だけオフにする。こうした作業は演出が加えられていると考えられるのではないか。
ただ正直この項目は特に程度を推し量るのが難しい。「階級社会」(ジャン=マリー・ストローブ, ダニエル・ユイレ監督)の中でアメリカ国歌が流れるだけど、どうやらその音楽は本当にフレーム外で演奏していたらしい。ではこれはドキュメンタリーなのか。判断しかねている。
ちなみに
この基準にはあえて「編集(ポスト・プロダクション)」という項目を入れていない。編集とは絶対に演出が入るものだからである。ここに程度はない。演出のない編集というのは存在しないからだ。長い1カットがずっと続いているからといって、それが作品として出されているのだからそういう演出なのだ。「台詞」の項目でナレーションに触れていないのはそのためである。それが「人生フルーツ」(伏原健之監督)で樹木希林が話す状況説明のためのナレーションであろうと、「SELF AND OTHERS」(佐藤真監督)で西島秀俊が牛腸茂雄の手紙を代読している場合であろうと、あるいは牛腸茂雄本人が生前収録したカセットテープの音源であろうと、それは演出が加えられていると判断している。
整音作業、カラコレ、ここも同じである。一つの項目として分けた方が良いと考える方々はそちらで基準を見つけてほしい。
最後に
この5項目を使えば、ひとまずはある映画が相対的にドキュメンタリーであるか、フィクションであるかを判断して説明することはできるだろう。ただこの基準は常に曖昧なものである。
念の為改めて書いておくと、例え上記5項目全てでフィクションだと判断したとて、ドキュメンタリー映画になることもあろうし、またその逆だってありうる。繰り返すがここを区別することなんてできないし無意味だと思っている。ただレンタルビデオ店に行けばドキュメンタリーコーナーがあるし、ドキュメンタリー映画のファンもいるし、世界にはドキュメンタリー映画祭だってある。
そのことにケチをつけたいのではない。逆にそれを守っていきたい。「こんなものフィクション(ドキュメンタリー)映画ではない!」という言葉から映画を守っていきたい。しかしそうはいっても守るための盾や剣がないのではしょうがない。自分の好きな映画を守るため、ここにいくつかの防具や武器の一例を留めておいたまでである。
もっとも、これを書くと元も子もないのだけど、上記の基準とは全く関係なく区別は存在しているのかもしれない。もともとありもしない基準を帰納的に書いているのだから、こんな基準を軽々と超えていく映画を見てみたいとも思っている。
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