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ソンボル、いくつかの映画から 20190629

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2020年9月20日
  • 読了時間: 4分

下記記事は2019年6月30日こちらで公開したもののBUです。

 

前回スボティツァに来た時に知り合った、映画関係者からの紹介でソンボルというスボティツァよりも小さい、人口10万人ほどの街に来ました。なぜここに誘ってくれたのかと言うと、Terminal Fest 2019というイベントの一貫で、その知り合いが選定したセルビアのインディペンデント映画の上映会があるためです。


といってもカンヌやヴェネチア等の映画祭で上映されているような作品です。しかし彼曰く、やはりセルビアでも映画を見る回数は減っているとのこと。また、スボティツァの映画館でかかるのは大作物ばかり。せっかくセルビアにいるというのにセルビア人の作る映画が見れないのは勿体無いと思い、今回バスで1時間程足を伸ばしてソンボルにやってきました。


上映会



上映会はソンボルの市街地から数キロ離れた川沿いにあるカフェ。Cafe de Solにて行われました。画像を見ていただくとわかると思いますが、野外上映です。しかもこのスクリーンのすぐ後ろに川が流れていて、鴨やカエルの鳴き声が響く中上映という非常にのどかな雰囲気で行われました。

上映は日が沈んだ21時すぎから24時くらいまで行われます。日本の感覚からするとレイトショーなのですが、文化の違いでしょう、多くの人が見ていました。


印象に残った2作品について書きます。

なお、これは僕がこれから映画を作ろうとしている立場から書きますので、作品紹介とは種類が異なることはご承知ください。



Ivan Salatić監督「TI IMAŠ NOĆ」


基本的に無表情の登場人物たち。この画面の中で重要なのは人物ではなく光、物語ではなく光、常に光が重要視されている。監督も「物語より光の方が大事だ」と言っていました。


また、フレームが基本的に「狭い」。これはクローズアップということではなく、画面に全ての音源が見えていないということです。一つ一つの画面が世界の全てを写そうとしていない。この映画の一番最初、「ゴー」という船のエンジンの音が聞こえてきますが、決して音源は映りません。主人公の女性が宿泊先に来たとき、窓は開けられ外を往来する人々や車達。その音も聞こえてくるのですがやはり音源が全てわかるわけではない。この狭さの感覚、フレーム外の音の使い方、これがとても気持ち良い。しかも多々現れる異常とも思えるくらいのロングショット、そのときにももちろんフレーム外の音が響いている。


しかしいくつかのショットで物足りなさや過剰さが気になりました。

例えば魚を売り歩く老人の側をバイクが通るロングショット。画面の手前には横一直線に道があるのだけどこの道は一切使われない。

主人公の女性が夜寝ているときに別の女性が家に帰ってきて彼女の方をただ見ている。この女性のクローズアップは無表情なのだけど何か感情を感じろと訴えかけてくる。見ているということがドラマを駆動させていない。

・・・瑣末な指摘ですが。


見終わった後に監督と話すことができたのですが、やはりシネフィルで、日本映画では小津・成瀬・溝口はもちろん、諏訪敦彦監督のことも好きだと話していました。そこでこの映画のロケ地が監督の故郷であること、登場人物の多くが現地の人々であることを話してくれました。



Jelena Maksimović監督, Dušan Grubin監督「TAURUNUM BOY」


この上映では監督はいらしていませんでしたが、友人からの情報によると、ベオグラードのゼムン(Zemun)という場所で撮られたもので、この場所は決して治安の良いところではないそうです。

また、タイトルの「Taurunum」というのはゼムンの昔の名前だそう。


そこに住む少年達(悪ガキ達)のドキュメンタリー映画なのですが、正直この作品は僕は楽しめませんでした。ただ、なぜ楽しめなかったのかという点はこれから映画を作る時に留意しておきたいので書きます。

それはゼムンである必要が画面に現れていないからです。

悪ガキはどこにいるの悪ガキも一緒じゃないか、と思えたからです。わざわざゼムンである必要があったのだろうか。ゼムンという街から何を感じたのか、この感覚が映画からは感じられなかった。もしかしたら台詞のレベルで何か言っていたのかもしれない。けれど画面には現れていない。

つまり、悪ガキどもは大抵夜にはどこかに屯するだろうし、文句も言われるだろうし、親から仕事をするように言われるだろう。


例えば前述の「TI IMAŠ NOĆ」はあの場所でなければならなかっただろうし、ギヨーム・ブラック監督の「宝島」はあのレジャー施設じゃなければ行けなかったと思う。「牯嶺街少年殺人事件」は牯嶺街でなければならなかったし、「珈琲時光」は東京でなければならなかった。「H story」は広島でなければならなかった。

その場所でないと感じられない光や人や生まれる物語があったはずだ。

これは説明すれば良いということではなく、さも自然に写ってしまったかのようにさりげなく、しかしはっきりと画面に映らなければならない。


これは完全に蛇足だけれど「ロスト・イン・トランスレーション」がどうも苦手なのはこれが「東京でござい!」と東京を写しているからで、今思い出してもやはりちょっと身震いしてしまう。

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