ndjcの撮影をしてきました
- Sota Takahashi
- 2024年11月20日
- 読了時間: 4分
11月11〜14日にかけて、ndjcの製作実地研修の撮影がありました。僕にとっては周りがプロだらけの現場で撮影するなんて初めての経験。ただ皆さんとっても話しやすい方ばかりで非常に良い経験ができました。怒鳴る人もいなかったしね。それが一番なんか、ホッとした。怒鳴る現場に行ってすごく嫌な気持ちになったことがあったから。
撮影が終わった翌日15日は、こんなことになるのは初めてなのだけど、本当に何も考えることができなくなってしまって半日以上をただ寝て過ごし、起きていてもボーッとしてしまった。その日の夜、時々行く居酒屋に飲みに行ってもなんか気持ちはホワンホワンしちゃって。それから数日経ち、ようやくせっかく貴重な経験をさせてもらったのだし何か書いておこうという気持ちになってきたのでダラダラと書いてみようかしら、なーんて気持ちになってきました。
周りがプロの人たちだと、現場は恐ろしくスムーズに進む。僕はもうびっくりしてしまった。出演者に動きの説明をして、カット割の説明なんてしたら、もうすぐにテスト。そして本番。しかもカメラの動きのミスなんて全然ないから1発OKばっかり。芸大の実習のときに何度カメラの動きNGがあったか…。いや、実習は実習でいいところもあったんだけども。ただプロって全然ミスしないのね。ほんとびっくり。フォーカスもばっちり合ってる。すごいぜ。なんかゆっくり動きの説明したり、のんびり俳優と話してみましょうかなんて時間ほんとない。テキパキしていてどんどん現場は進んでいく。まあそういうスケジュールであったということもあるんだけど、このペースは慣れないと飲み込まれてしまう。
そんな中で気づいたのは、監督という役職の役割について。あんなにみんながテキパキと、スムーズに、そして時間通りにこなしていく撮影現場と呼ばれる空間の中で、監督という役職だけが、唯一、仕事として現場を停滞させることができる権利を持っている。このことに僕は気づいた。今まで監督してきた現場というのは、僕が一番早く、そしてスムーズに行おうとしていて、周りが遅いのにイライラしていた。いかにこちらがスムーズに行おうと努力しているのに、なんでそんなことに時間かけてんじゃい!というイライラを募らせていた。けどプロは違うぜ。次々にショットを撮っていく。なんだったら少し休憩でもして茶でもシバいてこようかしらと思ったら、え、次のシーンやっちゃうんですか?みたいな感じ。たくましく、そして美しい連隊。気がつけば本番になっている。ほんとだよ。そして滞りなく本番をして、問題なければOK次へと流れていく。これは間違っても文句ではないが、よく監督という役職は誰でもなれるなんていう。周りに身を任せておけば勝手に映画が出来上がっていくのだから本当のことだろう。僕はそもそも映画が芸術だなんて思っていない。人の営みであるし、仕事であるので、そりゃそうだよねという感じだ。
監督という役割だけが現場を停滞させる力を持っている。これはつまり簡単な話で「カット!もう一回!」と言えるのは監督だけだということです。あるいは「カット割、整理しましょう」とか言って撮影監督と現場中に打ち合わせを始めたり、「本読みしましょう」とか言って俳優を呼び止める権力を持っているのは監督だけだということです。つまり、現場において決定的に邪魔者であり続けること。スムーズにいくはずのことを遅延させ、停滞させること。これこそ、監督の職務を遂行するということに他ならない。皆が効率的に撮影をしていく中で、ひとりペースを乱せる存在。皆が一つの方向を向いているときに一人反対を向いている存在。これが監督というものだ。
まったく唐突に話題をズラせば、野球におけるキャッチャーの存在こそが監督なのかもしれない。
「時間をどのようにでも操作しうるのがキャッチャーなのだ。彼は、待たすことさえできる存在なのである。」
「捕手とは、チームの他の連中とは決して同じことを考えられないのだ。」
と蓮實重彥が「捕手論」(「プロ野球批評宣言」P42-43)で書いていたことを急に思い出したりもする。
とにもかくにも、映画というささやかな商売で監督というのは一体何をする人なのかということを僕は知った。映画の作者が監督だと思っている人たちにとって、監督というのはありとあらゆることを操作して自分の世界観を作り上げる人だと思っているだろう。全然違うぜ。こと現場においては、監督というのは自分がいなくてもドンドンと撮影が進んでいくチームに一時停止をかける。ちょっと待って!と言う。人が作家性と言うものも、この停滞の中に生まれている何かなのかもしれない。
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