スボティツァ、絶対的な他者 20190621
- Sota Takahashi
- 2020年9月20日
- 読了時間: 2分
下記記事は2019年6月21日にこちらで公開したもののBUです。

セルビアの首都ベオグラードからバスで2時間半、3年ぶりにスボティツァに来た。
写真はそのバスの車内から撮影したもの。島国の日本では見ることができない道路標識。このまままっすぐ行けば、ハンガリーの首都ブダペストに着くらしい。
ちなみにまだアンナとは会っていない。彼女はスボティツァに今いないためだ。
他者としての私

おとといベオグラードからスボティツァに移動し、ここで初めてわかったことがある。明らかに私はここにいる人たちとは別種の人間なのだということだ。 おととい2回、昨日も2回、道を歩いているだけで若者からからかわれている。半分は私に「ニーハオ」や「Chinese?」と声をかけてくるというものだった。もしかしたら前に来た時も似たようなことをされていたのかもしれない。しかし今回は映画を作ろうと思っていただけにかなり意識的に感じるようになった。
こういった差別的な扱い自体は私を全く傷つけない。 これは「程度の問題」であると考えているからだ。 つまり、あなたと私は違うと分け隔てることは、時に善だし、時に悪にもなる。 昨日も飲み屋で私に英語で話しかけてくれた人がいる。これも「私たちと同じグループに属していない」という意識からくる差別だが、それが優しさとして現れている。
ここで強く印象つけられたのは、私はセルビア人でもなければヴォイヴォディナ(セルビア北部の自治区)人でもないということだ。絶対にそこにいる人とは違う、他者であるということだ。そして、若者たちが私と一言も話していないにもかかわらずそういった扱いをしてくるということは、私がどれだけセルビア語を話そうとも、どれだけセルビア文化を理解しようとも、関係なく、彼らは私を他者として扱うということだ。
他者としての登場人物
ところで映画に出演してもらうということは、登場人物が「他でもないあなた」になるということに近しい。これは先ほどの私の体験に近しいように思われる。 私は外見上明らかに別の人間として、特別な存在として扱われる。 映画はフレームに映る人々を特別な存在として印象付ける。
しかし、映画で外国人を見て共感をしたり、時には同化するのはなぜだろう。 私とは絶対に違う人という意識のもとで見ないのはなぜだろう。
先日拙作「パパの腰は重い」を見た人が「どのおじいちゃんも一緒なんですね」と声をかけてきてくれた。きっと彼女のおじいさんも似た雰囲気を持っているのだろう。
この延長に差別の根本的な解決につながるような気がしているのだけど・・・。
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