ジュネーヴ 20190820
- Sota Takahashi
- 2020年9月20日
- 読了時間: 5分
下記記事は2019年8月21日にこちらで公開したもののBUです。
8月20日、スイスのジュネーヴに来ました。

しかし来て早々、まだ6時間ほどしか経っていませんが「ここは好かない」ということを確かに感じました。
スボティツァの方がよっぽど良かった。よっぽど素晴らしい街だった。
その理由を今回は書こうと思います。
街路樹について

ジュネーブという街は、経済的に貧しいセルビアのその中でも小さな都市であるスボティツァに比べれば何十倍も規模の大きい街です。
もちろんそんなこと書かなくてもわかっていると思います。
ジュネーヴという街の知名度はかなり高いですし、ここに来て数時間の間でも日本人を何人もみました。
スボティツァでは日本人をまず見かけません。それだけに、街中で日本語を話す人を見るだけで、この街が僕がここ2ヶ月間過ごしてきた場所とは完全に異質の場所なのだと感じます。
ここに到着してから数時間、街を歩いていて違和感を覚えます。
僕を退けるように街が存在しているかのようなこの感じはなんなのか。
とてつもない寂しさはなんなのか。
おそらくそこには関係の作り方の違いがあるのではないかと気づきました。
例えば街路樹を例に進めてみます。
ジュネーヴの街には街路樹がたくさん植えられています。
スボティツァにもたくさん植えられています。
しかしその木々たちと人々との共存の仕方が全く違うのです。
根を見てみると顕著です。
ジュネーヴの街路樹は根がアスファルトの下に完全に埋められており、根が地表に出てくることを一切拒否しています。アスファルトが平らであることが最優先事項として木々はその条件下で根を張り巡らせます。
スボティツァの街路樹はしばし根の力でコンクリートを隆起させ、亀裂を与え、地面を凸凹とした形に変えてしまいます。
このことだけで、この2つの街の姿勢が見えてくるのです。
これは「自然と共存することの姿勢」では全くありません。
人間と自然、その二つの存在を問題とするのか、それとも問題とすることすら乗り越えているのかという違いなのです。
人間と自然
ジュネーヴという街は圧倒的に人工的な街です。
人間と自然とが戦いあった結果、完膚なきまでに人間が勝利を収めた場所です。
自然は人間が許可をした場所にのみ存在し、人間を邪魔しないように配置をされています。
スボティツァもまた多くの人工的な建物が並ぶ街です。
しかししばしその建物、道路は植物や野良動物達によって侵略されたり、共存を余儀なくされています。
繰り返しますが、この話は「人間」と「自然」、どちらが優先度が高いのかという話ではありません。
僕がスボティツァに2ヶ月間住んでわかったのは、そもそもこの街は対立なんてしていないということです。
非常にヌルッとした関係を自然と人間が続けています。
道路が木の根によって割れたのなら、それに気をつけて歩けば良いことだし、たとえそれで転んだとしてもなんとかなる。
その考えがこの街を包んでいます。
しばしスボティツァの道路はグネグネしていて直線ではありません。
よくみると建物の屋根もグラグラと波打っていることもあります(嘘みたいですが本当です)。
もちろんその背景には道路工事にかかる費用負担の問題もあるかもしれません。
直す費用がないのだから共存していくしかない、という考えがあるのかもしれません。
しかしそうした諦めからのしょうがなさではもうないのです。
なんというか…「積極的なしょうがなさ」と表現したら良いのか。
そのようなものがあるのです。
表裏について
つまり、言ってみればスボティツァという街は「人間」と「自然」という対立項が成立しない状態にまでなっている。
これは街が未発達だからまだこの問題が起きないわけではありません。
この二項対立の彼岸に行ってしまっている。
そういう状態にまでなっているのです。
ジュネーヴはこの二項対立の上に成り立った都市に見えます。
少なくとも木の根を見る限りにおいては。
そしてこの関係は人間関係においても成り立っているようにも感じます。
スボティツァという街は小さなコミュニティがたくさんあり、お互いがお互いのことを知っていながら別の組織に属していて、そのことを相手もまた知っています。
これは少し歪な関係でもあります。
A男、B男、C女、D女の四人がいて、4人は共通のコミュニティに属している。
しかし同時にBとCは元夫婦であり、またBとDは現在交際中であるということがわかっている。
そしてそのことはAも知っている。
さらにAはCとDとも小さなコミュニティを持っていて、それをBは知っている。
こんな複雑な人間関係の中で彼らは暮らしている。
そこには人間関係における裏表は無効化された状態になっていく。
表も裏もバレバレの状態でいることをお互いがわかっている。
つまり表裏という考え方自体がもうここには存在していないのです。
積極的なしょうがなさによって、どんな人でもとことん肯定していくのです。
・・・このことについては僕は今の所ジュネーヴについて語るほどの知識はありませんが、人と人との関わりを見るにつけ、街路樹と同じ関係が成り立っているように思えてなりません。
街の中心部に建つ立派な建物の屋上には「Patek Philippe」「Vacheron Constantin」といった高級腕時計メーカーを始め高級ブランドの名前が並んでいます。
ここの人たちは多く上層階に暮らしている人たちのように思えてなりません。
地下で毎日仕事終わりにルーティーンのように半地下のビリヤードバーに来ていた人々と一緒に僕は歩んでいきたい。
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