『移動する記憶装置展』について
- Sota Takahashi
- 2023年2月2日
- 読了時間: 9分
修士修了のために書いた撮影についてのエッセイを、内容を少し変更してこちらにアップします。
修了制作で作った『移動する記憶装置展』の思い出に。
・はじめに
修了制作『移動する記憶装置展』は、私が二〇二〇年に自主製作した映画『上飯田の話』と同じく、横浜市泉区上飯田町を舞台にした映画である。『上飯田の話』は上飯田町に実際にある「上飯田ショッピングセンター」を舞台にした映画である。修了制作の企画を考えていく上でこの町に再度訪れたところ、町の様子が『上飯田の話』を作ったときよりかなり変わっていたことに気づいた。いくつかの商店は閉店し、ショッピングセンターの半分は一般の買い物客が入れないように閉鎖されていた。今ここで映画を撮らなければ、もしかしたら次に撮影することはできないかもしれない。そうした思いからここを再度映画の舞台にするべく企画を立てた。
・企画について
今回の映画では上飯田町という場所を映したいというきっかけから始まっているため、上飯田町を「映画を撮るための一つのロケ地」というように扱いたくなかった。むしろ上飯田町で起きている普通のこととして映画を作っている人たちがいる。スタッフもこの町に馴染んでこの町の一員であるかのように撮影を進めていく。私の理想としてはそうした状態を作りたいという思いがあった。
この場所には約四〇年間使われずに倉庫に眠っているお神輿がある。『上飯田の話』ではできなかったことの一つはこのお神輿を出すことであった。撮影隊の規模感的にこれは難しいと判断したため、実際の映画ではお神輿が通ったであろう道をカメラが通り、そこに祭囃子の音楽を流して擬似的にお神輿を再現するという手法をとった。しかしその後、この町の色々な人から神輿をまたやりたい、復活したいという声を聞いた。そこから映画を作るということを口実に神輿を復活できないだろうかと考えるようになった。
また、同時に監督領域の企画で二〇二一年の冬に行われた即興演出ワークショップで数年ぶりに再会した佐々木想氏に出演してもらいたいという気持ちがあった。想さんの持っている独特な雰囲気は上飯田という町に来たときにどんなことが起こるのだろうかという期待もあった。
以上の思いからこの企画が始まった。この場所と人から発想しながら映画を作ることは、私自身の個人的な思いもありつつ、同時にプリプロ期間の短さからくる製作の負担を減らすということもあった。
・脚本執筆とプリプロダクション
春期実習からもともとプリプロ期間がかなり短い中で行われなければならない撮影であったため、脚本執筆はかなり急いで行われた。当初企画発表段階では数話構成の映画を想定して脚本は書かれていたが、シーン数が多すぎたためにそのうちの一つを元に膨らませていくこととなった。それはとあるアーティストが作品制作のために上飯田にやって来て、発表後に帰っていくというものだった。他にあった話はどちらかといえばフィクション性が強く、上飯田町で撮ることの意味がより薄らいでしまうのではないかという懸念があったため、上飯田町で作品制作をしていく物語を最終的に取ることとした。
この脚本執筆の過程で同時並行して行われたのがまだ上飯田町に来たことがないスタッフになるべく来て、どんなところなのか感じてもらうということだった。
元々撮影場所がある程度決まっており、また前作でも撮っている場所でもあるという個人的な関係性の近さから、ショッピングセンター内でのロケ地交渉はかなりスムーズにいくことができた。アトリエとして使用するスペースを含めたショッピングセンター内全域、機材置き場として使用したショッピングセンターの会議室、俳優部控室として使用したレンタルスペース、全て上飯田ショッピングセンター(及び併設の居酒屋「和らく」のマスターとママ)のご厚意によって借りることができたのはプリプロを進めていく上でかなり助かった。最も困難に思われた小学校も、上飯田小学校の校長先生がたまたま大変映像教育に熱心な方であったということもあり、ロケ地として使わせていただくことを快諾してくれ、また神輿を担ぐ子供達を集めるためのチラシも全校に配布してくださったこともありがたかった。
俳優は、佐々木想さん一人は決まっているものの、他二人は未定であったため俳優を探すこともまた並行して行われた。主な方法としては二つ。一つは私の個人的なつながりのある俳優さんや、その俳優さんに紹介してもらった俳優さんにあたること。もう一つはプロデューサーから提案してもらった俳優さんにあたること。この二つのルートから決して多くはないが何名かの俳優さんと会い、雑談をしながらどんな人なのか見つつ決めることができた。
・撮影現場
撮影時には朝早くから支度を始めなければいけないという都合上、「ショッピングセンターの通用口の鍵」「控室として使用する部屋の鍵」「アトリエとして使用するスペースのシャッターの鍵」と三つの鍵を管理することとなった。プロデューサーと2人で管理していくこととなったが、結局ロケ地から住んでいる家の近さ故に私が便宜上持つこととなった。良かったのは、朝早くにショッピングセンターの鍵を開けることで、まだ開店前のショッピングセンター内で他店舗の方と挨拶をしたり、軽い雑談をすることで関係性を築くことができたことだ。「撮影順調?」と聞いてきてくださる八百屋さんや、我々の集合よりはるかに早くから準備を始めていたパン屋さんとお話しできたことは、この町の朝の風景を知るとても良い体験だった。撮影期間中の昼食休憩時も、スタッフがパン屋さんや蕎麦屋さんで食事をとったり、消え物や飾りで使われる小物をショッピングセンター内の店舗で買ったりと、撮影現場に何かお返しができる行動ができたこともとても嬉しいことだった。
今回の撮影で最大の難しさを感じたのは、実際に町の人にインタヴューするシーンと子供達の出てくるシーンであった。他のシーンでは、例えば谷繁想と庄司麻子がアトリエスペースの説明をしているときに蕎麦屋の出前のバイクが通ろうが、土屋スミレの働く小学校で職員室の電話を取る副校長先生の声が聞こえてこようが、これらは画面の周縁で起きたフィクション空間に流れてきた嬉しい偶然だ。しかしこの二つのシーンは町の人が画面の主役となって映る。
インタヴューはいかに緊張しないで撮れるかということはかなり苦心した点である。撮影部的にはやはり美しい光を準備したいところだが、準備しすぎると相手に緊張感を与えてしまう。そんな不安を抱えつつもインタヴューをするシーンの撮影部の準備風景を見てみると、事前の打ち合わせよりもはるかに多くの照明が準備されている…。まずいと思ったが、この点は被写体となってくださった方々が作り出す状況の協力が救ってくれた。私たちは毎週水曜日に地域の集会場で行われるおじいさんおばあさん達が集まる会におじゃまする形で撮影をした。フレーム外にも多くの方々が談笑しており、大きな照明が立てられていようと、いつもと違う人たちがたくさんいようと、ある程度いつもの会としての体を保つことができたことで、ガチガチに緊張させてしまう状況を逃れることができた。
今回子供達が出てきたのは、お神輿を担ぐシーンである。このシーンはさらに困難な撮影であった。私たっての希望でせっかく四〇年ぶりにこの神輿が出てくるということもあり、上飯田小学校に実際に通っている小学生達を集めることにした。このシーンは当初子供達のうちの一人が展示会場にきて「なにあれ!」と言いながら神輿を指差すということを想定してた。しかしいざやってみると”言わされている感”が強い。自分の中で納得ができずにテイクを重ねるも、子供達は暑さでバテていく。助監督もかなりあの手この手を試してくれたのだが、やはりどうしても拭えない。何度か本番をやっていく中で、最終的にOKを出せたのは、こちらの意図せず麻子役の影山さんが子供達にアドリブで「暑いし、どうぞー」と言って当初予定していなかった展示会場に入れてあげるという行動をしてくださったものだった。それによって子供達は「今この時間は自分の好きなように動いてもいいんだ」と感じてくれたらしく、自由に影山さんや想さんと会話をしてくれた。子供達の「こういうことは指示されていないからしてはいけないのではないか」というリミッターを影山さんが外してくれたことが大きかった。またそれに対応してくださった想さんにも救われた部分である。今後子供達と撮影をする機会があったときに、このリミッターを外すような努力をしていきたい。
・ポストプロダクション
ポストプロダクション段階で多くの時間を割いたのは、インタヴューや居酒屋のシーンといった、脚本上しっかり科白が書かれているわけではないシーンをどの程度使うのかということだった。一度この部分は私が編集してみたが、自分自身の思い入れの強さからか長すぎてしまい、紆余曲折の末に編集部が提案してくれた素材をベースに、気になるところは一緒に増減をしていくというプロセスになった。この部分の難しさは単に話の内容的な部分だけで判断ができないところにある。集会場で話すご高齢の方の後ろを通る人、話者の近くに座っている別のおばあさん、かつてここに何があったのか身振り手振りを交えて話してくれる「みくにや」のノリさんの身体の動きと思い出しているときの表情、スポーツ用品店の店長の声質、何を言っているのかという内容が聞こえればそれでいいわけではない要素が多すぎたために判断にとても時間がかかった。そんなときにもこちらの意図を汲み取り編集の提案をしてくれた編集部には感謝している。素材を見ながら、たまたま後ろを歩いていたおばさんの不思議そうな表情や、想さんのアドリブの科白の面白さといった、当初予期していなかった部分をおもしろさとして共有しながら進めてくれたことは、この映画の魅力を引き出していく作業としてとても助けてもらった。
・まとめ
『移動する記憶装置展』の制作は以上のような流れで進んだ。当初の企画で目指していたものは概ね達成できたところが大きいが、制作途中でのチームビルディングにおいて大きな課題に気付かされた。何を作るかということだけでなく、どう作るのかもとても大切にした作品にしたかったために、この課題に今後取り組んでいきたい。
講評時に諏訪教授からいただいた「映画は現実を利用するのが必要だが、この映画は現実に何を返せるのかということを問題にしている」という指摘は端的に私自身が映画作りを続けていく上での指針となるような言葉であった。
最後に、撮影終了後しばらく行けていなかった上飯田ショッピングセンターへ御礼も兼ねて行ったときに、我々撮影隊がいた二週間のことを「町に活気が出た気がした」と話してくれた人たちがいたことは、今回のプロジェクトをやって良かったと心から思えた瞬間であった。
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