『右側に気をつけろ』音楽の生産について
- Sota Takahashi
- 2020年12月11日
- 読了時間: 3分
『右側に気をつけろ』について書こうと思う。多分僕はこの映画をゴダール作品の中で一番見ている。そして時折猛烈に見返したくなる。なんで『右側に気をつけろ』なのか...これが『気狂いピエロ』や『愛の世紀』ならまだしも(まだしも?)よりによってなんで『右側に気をつけろ』なのか、さっぱりわからない。それは僕がジャック・タチを敬愛するタチヨンであるからか(『右側に気をつけろ』というタイトルはジャック・タチ出演の『左側に気をつけろ』の捩りだ)、劇中歌『C'est comme ça』が僕の好みに合ったのか。いや、「なんで」と問うこと自体が間違っているのかもしれない。「なぜでもだという具合に答えるしかない」と『ドレミファ娘の血は騒ぐ』で伊丹十三がつぶやいたように。
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ある日、とある白痴の元に電話がなる。物語を作り、映画を撮り、その日の夜に首都に届け、封切れば白痴の罪は赦されるとの連絡である。そこからゴダール本人が演じる白痴は映画のフィルムが入った缶を首都に届けに行く。『右側に気をつけろ』とは運搬(Transport)についての映画である。
さて運搬とは物を出発地点から到着地点に運ぶことである。この映画はまさしく、移動の道中を描いている。フィルム缶を運ぶゴダール、パリに行く途中の明日結婚するカップル、犯罪者を運ぶ刑事、そしてレ・リタ・ミツコ。
映画終盤までずっと音楽スタジオで作業するレ・リタ・ミツコは一体何を運ぼうとしているのか?ズバリ書くと2人は”音楽”を運搬しようとしている。これがこの映画の肝である。しかし2人は、白痴のように誰かに依頼されて作っているわけでもなく、誰かに届ける予定もない。本当は誰かから依頼されたのかもしれないが、少なくとも映画内ではそのように語られていない。彼らは音の蓄積によって音楽を運搬しようとしているのだ。
飛行機が飛び立つ前の空港、一組の夫婦が喧嘩をしている。側には少女が、何か音の出る楽器で遊んでいる。両親は「なぜ苦しみながら小説を書くのか」と口喧嘩をしている。少女はそんな両親の会話をよそに楽器でごく単純なメロディーを奏でて笑う。ここに音楽の力が端的に現れている。音楽をするのになんの知識もいらない。ゲーテの最期の言葉を知らなくても音楽はできる。しかしそれがたんなる音ではなく音楽になるとは一体どういうことだろうか。
レ・リタ・ミツコの2人は完成された音楽を演奏するのではなく、ああでもないこうでもないと言いながらたんなる音を組み合わせている。ゴダールの有名な言葉に以下のようなものがある。「これは正しいイメージではない、たんなるひとつのイメージだ」このゴダールの言葉を敷衍すれば、レ・リタ・ミツコの演奏は完成された一つの音楽ではなく、たんなる音であると言えるだろう。そしてそのたんなる音の蓄積から、際立つ”音楽”という質的な跳躍を生産しようとしている。
単なる音に潜性的に含まれる音楽の力を現勢させること。「地上にひとつの場所を」音楽に与えること。この運搬作業がレ・リタ・ミツコが行おうとしていることである。それが成功したかどうか、映画は映さずに終わる。映さなくてもわかるでしょうと言いたげに。
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