『マミー』分断している壁について
- Sota Takahashi
- 2024年8月8日
- 読了時間: 4分
更新日:2024年10月12日
『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』のような当時の映像資料に現在のインタヴューが入るという構成であろうと勝手に決めつけていた私の気持ちは、その冒頭から続く地域の方々の音声だけの会話が続く画面に「何か違うぞ」という期待感に変わった。『マミー』は分断と接続の映画である。
私たちが最初に提示される和歌山のとある地域の点描。誰もいない町の風景に、取材で得た住民の音がかぶさる。そこで表されるのは画面と音との分断である。人の映っていない風景に声だけがかぶさる。この映画ではこのように画面と音とは分断された状態で差し出されることが多い。監督である二村さんが事件の捜査関係者ととあるカフェのような場所で話すときも、聞こえる音声は監督と全然リップシンクされておらず、SPring-8の施設紹介のような音声もまた、まるで全然関係ない映像と接続されているかのようだ。
その分断の強調は、地理的な距離にも行われる。東京理科大学教授の中井泉さんと京都大学教授の河合潤さんの2人のインタヴューは、その地理的な隔たりを古典的な切り返しショットを用いた構成となっており、さも2人が対話しているかのように、しかしもちろんそんなわけはなく、編集されていく。ちなみに、中井泉さんのインタヴューの一部では音声が消されている箇所があり、ここでも分断が生じていることを小さく付け加える。
この分断された映像を見ながら「何が信じられるのか」という問題が浮かびあがる。というのもこの分断された状況では実際に誰がこの言葉を発しているのかがわからない、創作の可能性が捨てきれない。もちろん、声と映像の分断はプライバシーを守るという倫理的選択が取られており、この分断の間には倫理の壁があることはよくわかっている。それに信じられる声というのも収録されている。しかし、同時に僕は2つの音声がどうしても気になってしまう。1つ目は、映画冒頭に事件について語る住民たちの一番最後の住民の声。そしてもう1つは自殺した長女を報道するニュース音声。この2つの声は、当事者の声や当時の実際の音声ではないのではないか。嘘をついているとは思わないが、実際に発された言葉を原稿におこして、俳優が読んでいる気がする。そのことを思った、ということは映画のかなり冒頭からなのだが、この声と画面の分断は倫理的であろうと思う行為でありながら、同時に観客の本当に起こっているという信心を遠ざける、真逆の行為になっていることを意識せざるをえない。この声は誰の声なのか、本当にその人の声なのか。
林眞須美さんの手記として読まれるその手紙だって、実際に彼女が書いたものなのかわからない。そのように映っている。
そんな中、林浩次(仮名)さんと林健治さんが林眞須美さんの冤罪をうったえる講演会に同席していた映像が映ったことに驚かされた。その圧倒的な現実に対して。映画は冒頭から林浩次さんと林健治さんを同一フレームにおさめようとしない。ひょっとしたら事件以降家族の縁を切ってしまったのかと、見ながら想像したのは僕だけではなかったはずだ。林健治さんは息子抜きに仲間と家のあった地域に行くシーンがあり、そこが妙に断裂を予感させてもいた。それがある瞬間、林浩次さんを映したカメラがゆっくり右にパンをすると、その前の方の席に林健治さんが座っている様子が映る。なんだこの2人は会っているのか!そして2人はある企みをする。かつての”グル”に会いにいくのだ。2人は同じフレームに同居している。この現実は間違いなく信じるに値する。その2人の企てもまた、映像的な意味での決定的証拠があるわけではないが、やはりどこか信じられる。映像に対する信心を僕は持てた。
どこまでが可能性の話で、どこからが信じるに値するのか、この問題がそのまま冤罪をうったえていく根拠となってこの映画を貫く。この形式と内容のリンクになんともこのドキュメンタリーのうまさも詰まっている。
ところでパンフ等でも隠されているのであえて書くことはしないけれど、最後には「焦りと慢心から取材中に一線を越え…」るシーンがあるのだけど、そこまでもったいぶって書くほどのことではないように思う。「法が正しくないときには、正義が法よりも優先される」(『ゴダール・ソシアリスム』)を出すまでもなく、法の決定を覆そうとするとき、やはりそこには正義のために行われる違法行為があるのは当然のことだ。
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