『MADE IN YAMATO』
- Sota Takahashi
- 2022年7月2日
- 読了時間: 2分
中学時代の同級生、荒井くんのことを急に思い出した。とても無口だった彼は滅多に話さなかった。背が高くてスラッとした感じだった気がする彼は、塾で解答をふられたときだけボソッと喋るのだ。しかしその声は普段出し慣れていないせいか少し甲高いような、吃るような、恥ずかしいことを話しているかのような感じがした。そして私が気になっていたのは、彼は話すときには必ず片方の足をブランブラン揺らす。こういう人は時折いる。私の高校時代にいたMichealという同級生もそうだった。彼もまたみんなの前で何か話さなきゃいけないときに足を揺らす。話すことが大きなストレスとなっている彼らにとって、その排気口として足を揺らしているのかもしれない。それほど、視線を受けている中で話すことはストレスを感じるのだ。
カメラは1つの視線でありながら、その後に待ち構える上映を思えば、無数の視線の代わりにもなりえる。だからこそ暴力的だと時に言われる。その暴力性に慣れている人が俳優なのだろうか。
例えば川部良太監督『ここにいることの記憶』を見ていてヒヤリとした感覚を覚えるのは、その暴力性に抵抗しようとする人々を見るからだ。カメラの前に立つ人はカメラを意識して外向け用の笑顔を作ったり、かっこつけたポーズをしたりする。「そう簡単に己を曝け出しはしないからな」カメラの暴力に対する無言の抵抗を映してる。
山本英の『あの日、その日、この日』を見て、見てしまったという感覚を受けるのはまさしくこの排気口としての身体が刻印されているからだ。インタビューに応じる職員2人がインタビュー中にゆっくりと椅子を回す。体が勝手に、ある暴力性からの抵抗として揺れてしまう、この可笑しさ。山本はその瞬間を作品の中に丸っと包み込んでしまう。どんなに訓練を積んだ俳優であろうがたどり着けないのではないかと思えるような、現実とフィクションの間を浮遊している。
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