top of page

「映画とは何か」発表原稿

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2021年2月14日
  • 読了時間: 7分

更新日:2022年2月11日


昨年、大学院のゼミで10分間スピーチを行いました。

課題は「映画とは何か」です。

せっかくなのでどんなことを話したのか、発表原稿を掲載します。

大学院のゼミなので、黒沢清さんを始めとした5〜6名に向けて話しました。

「映画とは何か」


 よろしくお願いします。おそらく他の人もそうだと思うのですが『映画とは何か』というテーマでスピーチをしなければならないと聞いて、そしてそれがよりによって皆さんの前でしなければならないと知って、激しい戦慄と自分自身への絶望を味わいました。何か私が話せることはあるのか、仮にあったとしてどのように伝えるべきなのか、これが全くわかりません。講釈を垂れることだけは絶対にしたくないと思った末に、これから話すことはやや自己紹介的な、あるいはエッセイ的な内容になりました。10分ほどお付き合いいただけますと幸いです。


 『映画とは何か』について考えたとき、自分自身が「これは映画だ」と思った出来事を思い出してみました。私は映画を真剣に見ることを始めたのは遅く、東京造形大学に入ってからでした。それがいつだったのかは忘れましたがある日、当時学長だった諏訪さんの研究室に行ってDVDを借りたのです。そのDVDとはジャック・タチ監督の最大にして最強の作品である『プレイタイム』です。大した物語もなく、ただ擬似的なニセモノのパリらしき景色が広がっていくこの映画の一体何が面白いのか、身始めた当初は全くわからなかったのですが、みているうちに画面のありとあらゆるところで起きている出来事がおもしろいということに気づいたのです。そして見ているうちにタチ・ビルと呼ばれるこの映画のセットがグレーであること、道路に等間隔に外灯があること、つまりタチがコメディ的な運動として演出したものではないであろう部分も含めておもしろく見えてきました。映画批評家の三浦哲哉さんはこう書いています。「フランスにおける世界最初の映画興行で、動く映像をまのあたりにした観客たちがなによりも驚いたのは、背景で風に揺れる葉叢(ハムラ)だったという。」まさしくこの言葉の通り、画面に映る細部がおもしろく見えてきました。

 後にそれはタチの言う「喜劇の民主化」と呼ばれる策略にまんまとハマっただけだ、と知ったのですが、それにしてもあのときの体験は私に「映画とは何か」を教えてくれた一つの体験のように思いました。


 その後、私は少しばかり映画を見るようになったのですが、あのときタチ映画がもたらしたものはなんだったのか、その因数分解をしていきたいと思うようになり、パソコン画面で映画を見ては気になる瞬間をスクリーンショットで撮り、その写真を保管していくデジタル上のアルバムのようなものを作ることにしました。今でも続けているのですが、なんて馬鹿な取り組みだろうと、今でも思っています。

 さてそのアルバム作りをしているときにふと気づいたことがあります。それはその写真の中に2種類の似たような写真が多く入っていることに気づいたのです。それは「揺れる電球」と「窓から出入りする人々」の写真です。「揺れる電球」とは、天井から吊り下げられた電球が、何かのハズミで揺れる瞬間のことです。おそらく最も有名な揺れる電球は、ヒッチコックの『サイコ』でヴェラ・マイルズが骸骨を見た時にとっさに手を上げて揺らした電球だと思います。また「窓から出入りする人々」とは、ドアからではなく窓で出入りする人々のことです。これは映画のかなり初期から度々出てくるので、例を挙げだすと枚挙にいとまがありませんが、黒沢清さんの映画、たしか『勝手にしやがれ』シリーズにも出てきます。

 つまり、ここで私が気になったのは、そしてそれが私にとって『映画とは何か』ということに対して思っていたことなのですが、「本来の使い方を逸脱した事物たち」を見ることが私は好きだったのです。電球は揺れるためにあるものではありませんし、窓は出入りをするためのものではありません。しかしそれが画面で見ると「ああ、映画を見てるのだな」というある興奮がありました。


 そんなことを考えて私は1本の短編映画を作りました。本来の使い方を逸脱した事物たちをたくさん出そうと企んで作られたこの映画は、しかし評価されませんでした。

 理由はある程度わかっているつもりです。恐れ多くも黒沢清さんの言葉を都合よく曲解し、要約して引用するならば、「密告者は密告する、強盗は強盗する、殺し屋は殺す」しかしながら現実はそうはいかない。「人間ドラマ」があるからだ、このことが抜け落ちていたのです。ちなみに氏は「映画こそは、物語を素直に信じることのできる、今どきめずらしい稀有なメディアかもしれないではないか。」とも書かれていることを呟いておきます。


 ではどうしようか、ということがもっぱらの問題になります。どのようにして人間ドラマを作ろうか。私は私の執着する画面の画像は手元にたくさんあるものの、人間ドラマの蓄えが全然無い。

 ここで私は一度、ジャック・タチの唱えた「喜劇の民主化」に戻ろうと思いました。先ほども少しだけ出てきたこの「喜劇の民主化」というのは、簡単に説明をすれば、チャップリンが映画の中で「さあこれから私は面白いことをしますよ」とばかりに観客を笑わせるタイプの喜劇であるのに対して、それとは反対に、登場人物は何か面白いことをしようとしているわけではないのだけど、その様子を見ているとなぜか喜劇になってしまう、そういうスタイルの喜劇を言います。タチの映画を1本でも見たことのある人は、「ああ、そういうことか」と納得できるのでは無いでしょうか。タチ映画の人々はその世界にただ住んでいる。そしてそこで行われる日常的な仕草がそれだけで何か面白いものに見えてきてしまう。タチはこうも言っています。「ぼくが試みてきたのは、ぼくとしては、根本的には、誰もがおもしろいということを証明し、見せることです。ギャグをやるのに、喜劇的である必要はありません。」

 これを援用することで『映画とは何か』という問いに答える手がかりがつかめるかもしれない。そのため、私は「さあこれから私は面白いことをしますよ」とばかりに事物を利用するのではなく、むしろ物がある、それそのままを撮れないだろうかと思うようになりました。

 人々が普通に生活をしている中にある可笑しさや「本来の使い方を逸脱した事物たち」を発見すること。少し考えてみると、これを聞いている方も思い当たるふしがあるかもしれません。封筒の切れ端がメモ帳になったり、本がマクラの代わりになったり、することはたとえ自分が行ったことがなかったとしても、想像することはできるかと思います。かくいう私はしばし「走り方が変だ」とか「笑い方がおかしい」とか指摘をされます。


 このような理由で最近は自分で映画を作る際は、なるべく演じる人に近しい役柄を設定できないか、といった問題意識であったり、その場所に住む人がいつもやっている慣れた動きだけれど外部の人からすると珍しく思える動きを調べたりするようにしています。もしかしたらこうしたアプローチによって不意に『映画とは何か』という問いに対する、ある姿勢が定まるのかもしれないと思っています。


 さて、だらだらと話してきましたが、おそらくそろそろ時間だと思います。仮にでもまとめのようなことを話す必要があります。しかし『映画とは何か』という問いに対する言葉はやはり私自身がまだつかめていないので答えることができそうにありません。ただ、仮説のようなものは今まで話してきた体験から答えることができるように思えます。それはつまり、「人間ドラマの中に、本来の使い方を逸脱した事物の運動を発見すること」なのではないかというものです。しかしこの仮説は非常にやっかいです。「本来の使い方を逸脱した事物の運動」はいかにして映すことができるのかという最大の問題が横たわっているからです。そうした運動は、葉叢に驚いた観客のように私の意思に反して映る場合や、常にありとあらゆる画面に映っているという場合もあるでしょう。そして、もしこの問題が解決されたとき、しかしそれでもやはり『映画とは何か』という問題は依然として宙ぶらりんの状態、英語で言えば「サスペンス」の状態のままであります。この絶望的な展望を、しかし取り急ぎの結論とするしかない。そのことに、やはりこのテーマを聞いたときの戦慄、絶望はあるのだと今一度私自身が確認をしたところで終えたいと思います。ありがとうございました。

 ちなみにこれを発表した後、黒沢さんから「人間ドラマって何?」と聞かれましたが「それは僕が聞きたいくらいなのですが...」と答えて、話してもらったことをメモとして書いておきます。

最新記事

すべて表示
エッセイを書いた2025年

何を思ったのか2025年はエッセイを書いてみようと思い立ち、1年間ここで書いてみた。書いてみてわかったのだけど、僕の場合は自虐にはしらない限り、かなり高い確率で求められてもいない自慢や自分語りになってしまうということだ。恥ずかしいことだけど、油断するとすぐに自分語りをしてしまう。かなりの分量を書いてみて、読み返してみて恥ずかしくなって全部削除した文章がたくさんある。  おいおいどこの巨匠が書いてい

 
 
 
カラオケが苦手である

カラオケが苦手である。音痴だから恥をかきたくないということもあるが、それよりなによりカラオケという場にうずまく政治が苦手だ。  誰と一緒にいるか、どんな世代なのか、何人いるのか、盛り上がった方がいいのか、逆に下手に盛り上がらない方がいいのか、この曲を入れたら狙いすぎだろうか、しかし知らない曲を入れてもしょうがなく、世代的に一番若いから最近の若者っぽい曲がいいのか、合いの手は入れるか、サビが終わった

 
 
 
今夏の思い出

今夏、長野県の木曽で滞在した中で最も思い出深いのはmicciさんとの出会いだった。micciさんは木曽の山中で旅館を経営している一児の母である。息子のnaggieは10歳の少年。naggieはわんぱくで、虫が好きで、虫が嫌いな僕にたくさんのアブがとまっている掌を見せてくれる。「ねえママ!」と度々micciさんを呼んで一緒に遊んでほしいとせびる。  10歳くらいの子供はすごい。仕事柄子供達と一緒に映

 
 
 

コメント


© 2020 Sota Takahashi

​st

bottom of page