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「オモウマい店」を見て蓮實重彥のことを思う

  • 執筆者の写真: Sota Takahashi
    Sota Takahashi
  • 2022年10月17日
  • 読了時間: 4分

 「ヒューマングルメンタリー オモウマい店」という番組が大好きでHuluで全話見ている。これは本当にテレビで今まで見たことのないような画面が溢れている。単なる一般の人が巨大なソフトクリームを食べ始めて食べ終わるまでを1カットでずっと見せたり、旅行中の町中華を営む夫婦とか、テレビを見ている鰻屋の店主とか、僕の知るテレビのルールから外れているけど、とっても魅力に溢れている画面を平気でずっと放映する。僕はこういう画面が大好きだ。うまく編集されて、笑いどころも全て教えてくれるような編集は、言ってみればもう磨き上げられたダイヤのようなもので、綺麗だが小さい。それに対してこの番組は延々と見せる。ダイヤになる前の原石を見ているようだ。無骨で綺麗になるかどうかもわからないが、大きく重い。もちろん無駄に思える部分も多い。けどそれがおもしろいんだ。


 2022年10月4日に放送された2時間スペシャル番組、僕は先ほどHuluで見て、感動してしまった。それはこんな場面である。

 とある蕎麦屋に弟子入りをした当時49歳の男性がいた。彼は必死に修行をした末に、1年弱の修行期間を経て、晴れて卒業することとなった。その後彼は故郷で蕎麦屋を開くらしい。その彼の弟子として最後の日。彼は師匠にお別れの挨拶をする。しかし師匠は表に出ようとはせず、表の見えるいつも蕎麦打ちをしている調理場で、蕎麦を打ちながらお別れをする。その弟子は車に乗って、師匠の元を去る。それを窓越しに見る師匠。ふと師匠も窓側に歩いていく。カメラは師匠ナメで去っていく車を撮る。感動的な別れのシーンである。車が去っていく。すると、たぶん思ったより車の横移動のストロークが長かったのであろう。師匠ナメのカメラでは車を最後まで追いきれなくなった。カメラは少し車を追うように手持ちでパンをする。すると師匠の弟子を見送る横顔が映らなくなってしまう。しかし去っていく車の方では弟子が師匠を見ているし、もしかしたら何か言うかもしれない。そこもおさえたい。とはいえドキュメンタリーだから瞬時にどちらを撮るのか選ばなければいけない。


 結果、カメラはこの別れのシーンを撮ることに、一般的なレベルで言えば失敗した。どっちつかずのブレブレのカメラはハンパに車を追い、何もないことがわかった瞬間に師匠を映すことになってしまった。しかし時は遅く、師匠もまた弟子の姿を実際には見ていないけれど送っている瞳のみが映る。


 かつて蓮實重彥は『監督 小津安二郎』の中でこのように書いている。

 「瞳は可視的な対象だが、見ること、つまり視線というものは絶対にフィルムには写らないのである。そこで、あたかも何かを見ているような視線というものは、画面から消滅せざるをえない。見ることとは、映画にあっては、納得すべきことがらであり、視覚的な対象ではないのだ。それ故、キャメラは凝視しあう二つの存在に対してはどこまでも無力であり、この現実を物語に置きかえるほかなくなる。」(P132)


 ではどうするかといえば蓮實重彥のいう「物語に置きかえる」ことである。言い換えるなら二人の人物が見つめあうその瞳がある空間を撮ることができないのであれば、時間的に見せること。カメラが一八〇度パンをするか、切り返しショットを入れることである。

 しかし「オモウマい店」のスタッフはそのときに一台のカメラしか持ち合わせておらず、かつ取材対象の片方は車に乗って去っていってしまったし、位置的に二人の間に入って一八〇度パンをすることもできない。結果、映ったのはこのディレクターの戸惑いからくるどっちつかずなフレーミングと、「凝視しあう二つの瞳を同じ一つの固定画面におさめることができないという映画の限界」(P135)だ。

 二つのみつめあう瞳を映すには「捏造せざるをえない虚構」を使うしかない。しかし使えない。この狼狽が画面から伝わってくる。


 僕は良いショットとはこういうことを言うのではないかと思っている。最近「ショットとは何か」という蓮實さんの本も出版されたらしい。僕はまだ読んでいない。けど多少なりとも著作を読んだことがある者として、いわゆる「綺麗にライティングされた美しい陰影のあるショット」のことを褒め称えるような文章では絶対にないことはわかる。多分ショットとは「オモウマい店」のように狼狽の末に咄嗟に発明されてしまうことなんだと思う。「いいショット」とは、決して狙ってできるものではない。

 たちどころに起こる現実の出来事に対してエイヤ!という判断の末に現れてしまった映画的限界。僕はここにこのディレクターのどちらの瞳も映したいという欲望と優しさを見た気がした。


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