「これは映画ではない」
- Sota Takahashi
- 2021年8月2日
- 読了時間: 2分
「『これは映画ではない』と監督が言い出したらその人は終わり」そんなことをふと授業で言われた。言いたいことはわかるけれど、なんとも腑に落ちない言葉に僕は思えた。
例えば「これは”私の”映画ではない」と監督が言い出したら、それはいよいよ終わりであるように思う。そんな凝り固まった自意識なんて捨てちゃえよという気持ちにもなる。しかし「これは映画ではない」と思うときって...あるでしょう?こんなことを思うのは僕だけかしら。
「それでも映画なんだ」と許容していくことには限界があるように感じるときがある。ズルいくらい極端な例を出す。僕が大学生だった2012年、とある先輩が卒業制作で物議を醸した。『エイガ・ラーメン』と名付けられたパフォーマンスがあり、その先輩は校舎の屋上にテントを建てて、そこで手作りのラーメンを作って来る人にふるまった。そこではランダムに居合わせた人がラーメンを食べたり、話したりした。そして彼は「これが映画だ」と主張した。誤解のないように書かねばならない。彼はそのときに撮った映像を編集して上映し「これが映画だ」と言っていたのではない。ラーメンを振る舞ったテントにスクリーンがあり、そこで何か映像を流してもいない。ラーメンをみんなで食べる。そのことが映画だと主張した。僕の記憶では講評会で「これは映画ではないよね」と言う先生もいた。正直僕も、これはさすがに映画ではないように思う。
ただ、「映画を作ることが、生きることだ」とは言えると思うし、そういう主張であれば賛同できるなと思う。もちろんこのときに体験したことが映画のアイデアになることはあるだろうけれど。が、このとき同時に成り立つのは「生きないことが映画を作ることではない」という対偶であり、「生きることが映画を作ることだ」という逆ではない。
こういうかなり特殊な体験をしたことがあるので「『これは映画ではない』と監督が言い出したらその人は終わり」というのは、どうも納得ができない。...こんなにも極端な例を出されちゃ、先生側も困るだろうけど。もっと「フルCGの映画は映画じゃない」とか「椅子が動く映画は映画じゃない」とか、そういうことを期待しているのでしょう。
ちなみにこのラーメンは大変おいしかったらしい。彼は無事この卒業制作で卒業した。あと、僕はこの先輩のファンであった。金八先生が大好きだったその先輩と、学内で会っては金八先生の話をした。元気にしているのかしら。こうしたふと思い出した人と気軽に連絡を取れるフットワークの軽さを手に入れたいものだ。
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