Touching the Glossy Coat of a Horse. 和訳文
- Sota Takahashi
- 2020年9月20日
- 読了時間: 8分
下記記事は2014年10月31日にこちらで公開したもののBUです。
11月2日に行われる「香も高きケンタッキー」の上映前に、
なんとか訳そうと思っていたのですが、難しいですね・・・。
色々な訳し間違いもあるかもしれませんが、
そのときは優しく下のコメント欄で教えてください。
訳し元の文章
http://www.fipresci.org/undercurrent/issue_0509/kentucky_pride.htm
-----------------------------------------------
馬の毛並の艶やかさに触れる
ジョン・フォード「香も高きケンタッキー」
蓮實重彦
「香も高きケンタッキー」(1925)の冒頭数ショットを眺めているだけで人は心地よさを感じずにはいられない。我々は静かに流れる時間の中で、群れを成す馬や孤立した馬を見る。スクリーンの上に見事に配置された各馬の体を見ると、いかなる緊張も緩んでしまう。どの映画史の考えにも反するが、この幻想的なシーンを見ると映画のカメラというのは間違いなく四本足の動物をそのフレームの中に収めるために発明されたのだと思えてしまう。立っていようが寝そべっていようが、運動していようが静止していようが、馬というのはスタンダードサイズのスクリーンに完璧なまでに収まる。さらにいうならば、「香も高きケンタッキー」のオープニングシーンは馬達の穏やかな運動に対していかなる音も感じさせまいとしている。馬達の意思疎通は音によって理解されうるものではない。確かに、このサイレント映画の中では、画面の上に現れる字幕によって雌馬に独白をさせる。しかし、人間にとってどんなにサイレント映画が不自然に感じたとしても、それが馬にとっては至極全うな風景だと気付くだろう。さらに、モノクロフィルムというのは間違いなく固く艶やかな毛並と頭の白い模様を映すためにあるのだ、という幻想を生む。
この馬を映した白黒サイレント映画には、映画という媒体はこの目的のためにのみ、発明されたのではないかと信じ始させる効果がある。こんな幻想的な瞬間を前に、本来の映画史は失墜してしまう。エドワード・マイブリッジとエティエンヌ=ジュール・マレーの前・映画的な疾走する馬の描写、オーギュストとルイ・リュミエールのシネマトグラフの発明、トーマス・アルヴァ・エジソンのキネトスコープの発達、どれも大して重要ではない。「香も高きケンタッキー」にはそれほどの力と魅力にあふれている。公開時、ニューヨーク・タイムズは「香も高きケンタッキー」になんの興味も示さなかった。今はどうか、DVDでは手に入らず、わずかな上映の機会があるだけだ。大方この作品は、フォードにとって喝采を得た1924年製作「アイアン・ホース」の後に撮られ、1926年製作の俊作「3惡人」の前に撮られたものだとしか見なされていない。彼がユニバーサル・スタジオにいたとき、彼の名は「ジャック」と表記され、フォックス・スタジオに移動し「ジョン」という名を手に入れてからわずか3年だ。このときのフォックスとの労働条件に関する契約について、フォードは後にこう語った。「自分から仕事を選ぶことはなかった。仕事を与えられて、できることをしていただけだ。」言うまでもなく「香も高きケンタッキー」もまた、用意された脚本をもとに作られた。しかし脚本は、ハリウッドのスタジオから離れた、ロケーションでの撮影中の予期せぬ体験を防ぐことなんてできない。後にフォードが語ったあるエピソードがある。「我々はケンタッキーに行って、競馬についての物語をやろうとしたんだ。そこに一頭の若い雌馬がいて、とても綺麗でね、彼女がどういうわけか私のことを気に入っていた。いつも思うんだが、彼女には確かに私に対する愛があった、馬にとってはとても変なことなんだけれど。」これを読むと、「香も高きケンタッキー」を見たときに立ち上がった幻想は、しかしそれほど現実からかけはなれたものではないのだと思える。
映画史家ジョセフ・マクブライドが「予期せぬ快楽と魅力」があると評するこの映画は、ヴァージニアズ・フューチャー号と名付けれられる馬の誕生のシーンから始まる。フォードはこのシーンを雌馬の主観的なカメラで写し、先ほど伝えたように、物語は雌馬自身によって語られる。字幕からフューチャー号は「まっすぐ走れ、早く走れ」という教訓のもと生きていることを知る。フューチャー号のオーナー、賭好きのボーマウント家の長は、フォードが「素晴らしい名優の一人だ」と評した、ヘンリー・B・ウォルソールによって演じられる。アイルランド人の馬の調教師、マイク・ドノヴァンは、この時期のフォード映画の脇役を度々演じたJ・ファレル・マクドナルドだ。ボーマウント氏は彼の2番目の妻と、彼の最初の妻の間に生まれた娘、ダニーと暮らしている。彼はフューチャー号の飛び抜けた競走馬としての素質を楽しみにしている。ボーマウント夫人はというと馬ではなく、夫の稼ぎにしか興味を持っていない。既にポーカーによって彼の幾頭の馬を手放しているボーマウント氏は、全財産をフューチャー号に賭けなければならなくなった。
この物語があの忘れてはならない競馬のシーンを作り出したのだ。フォードが撮影を任せたのは、粗野にも思えるマイブリッジとマレーの連続写真とは対照的な、肉体の運動を捕えたジョージ・シュナイダーマン。馬のこれほどまでの躍動感を捕えたものがあるとすれば、プロダクションの極端なスターニリズムを裏切ってまで作られた、ボリス・バルネットの「騎手物語」くらいであろう。しかし「香も高きケンタッキー」の競馬のシーンは単純な運動への興奮だけにとどまらない。まず、これはフューチャー号が勝つことを期待されていないという点がある。次に、競馬のシーンはこれで終わらない点にある。フューチャー号はゴール直前まで先頭を走るものの、突如転倒し彼女は足を折る。これによって一人の男と雌馬の運命は決定づけられる。ボーマウント氏は馬に賭けていた全財産を失い、家族ともども路頭に迷うこととなる。
ボーマウント夫人はドノヴァンにフューチャー号を殺すように命じ、違う男と家を去る。取り乱したボーマウント氏は娘ダニーと共に仲間たちと散り散りに。さらに、どういうわけかドノヴァンが殺さずに生き残ったフューチャー号は出産の後、荷馬として奴隷のように働かされるようになった。映画を見る誰しもが、いつか人間の父娘は再開し、馬の母娘もまた再会するだろうと予期するだろう。そしてその予想は見事当たることとなる。フューチャー号の娘、コンフェデラシー号は母の目の前でケンタッキー・ダービーの二歳馬賞に勝ち、ボーマウント夫人の愛人は全財産を失う。そしてボーマウント氏は娘と再会し、コンフェデラシー号に賭けた金からフューチャー号を買い戻す。かくしてこの二つの散り散りになった家族は再び一緒になる。そこにフューチャー号のモノローグがかぶさる。「私の娘の疾走する姿を見ると、痛みも、人生の苦難も消え去った。そのときわかった、私は負けてはいないのだ、これからも続けていこう。ああ、私の娘、彼女が全て慰めてくれた。」
感傷的な母子愛のハッピーエンドを見ると、スコット・アイマンの「香も高きケンタッキーは破廉恥だ、破廉恥なまでに印象的な映画だ」という言葉が思い浮かぶ。あるいはタグ・ギャラガーが話した「伝統と義務」というテーマ。「この初期ビニエット調の作品こそが後のフォードの偉大さを支えている。」しかし、もっとも驚くべき点はフォードの人物配置にある。その素晴らしき例は、貧しいボーマウント氏と(警察官になった)ドノヴァンが(思い荷車を引く)フューチャー号とは気づかずに交差点で彼女とすれ違う場面だ。
とてつもないショットからこのシークエンスは始まる。馬と人間は上記の通りの状況でにぎわう雑踏の中佇んでいる。ドノヴァンはなにやら自動車の運転手と渋滞した交差点でもめている。その場に偶然に居合わせたボーマウント氏は何気なく片手を荷馬の腰に当てる。そのとき、生まれた瞬間に同じ部分にそえられた感触を思い出したフューチャー号が、その右足で舗道をあがいて必至に合図を送る。しかしボーマウント氏はその仕草に気付くことなく、なにもなく通り過ぎていく。とても短いこのシークエンスの中に、競馬場の興奮とはかけ離れたドラマがある。それにしてもこの意義深き運動、ボーマウント氏の無意識の右手の仕草、ドノヴァンの交通をさばくレインコート姿の職業意識の発露ぶり、そしてフューチャー号の必死だが同時に諦めをも含んでいるといった動き、ごちゃごちゃとした野外のシーンの中で確かに際立っている。この映画史上もっとも美しいシーンを目の前に感動しない者などいるのだろうか。こんな奇跡的瞬間を作り出せる人間など、偶然に若い雌馬が自分にほれ込んでしまった男、ジョン・フォード以外絶対にいないのだ。
このシークエンスは我々に確かに、言葉や目線といったものが無効な、触覚体験の大切さを示している。男の手の運動、艶やかな馬の毛並、混雑した交差点、こうした天才的な人物配置によって人々は触覚の勝利を感じる。また別のシーンでは、競馬場でのボーマウント氏とその娘の邂逅がある。彼女は父の目をそっと手で蔽う。ここでもまた物語を進めているのは見ることでも言葉でもなく、触覚である。こうしたシーンではヘンリー・B・ウォルソールはボーマウント氏の役割をただその存在によって成し遂げている。フォードはこう語った「彼はこの映画の中では何もしていない。ただその存在感が素晴らしい。バリモアみたいだ。もっともウォルソールの方が断然良いのだが。」この「存在感」こそがフォード映画の中の人物、動物たちを効果的に描く重要な点である。そしてこの存在感こそ、最初のショットの根幹を成すものであり、これこそが我々が最初に感じた幻想に他ならない。フォードは後の作品でも疾走する馬を天才的に使うわけだが、それだけでは天才とはならない。他の監督たち、例えば黒澤明も疾走する馬を撮ることはできる。ジョン・フォードの凄味というのは運動する馬だけではなく、止まった馬にこそ現れている。フォードは単純に艶やかな毛並をカメラに収めるだけといった、あたかも人間より下級な存在としての馬ではなく、馬に「存在」を与える術をわかっている。このあまりに不努力であることによって彼は真に「伝統と義務」の映画作家たりえているのである。
-----------------------------------------------
訳す際に
河出書房新社「映画狂人シネマの煽動装置」蓮實重彦著 P196-200
を参考にしました。
※最後の段落のボーマウント氏と娘の邂逅のシーンは、実際は競馬場ではなくドノヴァン家であったと思うのですが、原文のまま「競馬場で」と訳しました。
Comentarios